蓮の花が咲く朝に

蓮の花が咲く朝に
第一章 池のほとりで
梅雨の晴れ間というのは、こういうものだと柊木奏(ひいらぎ かなで)は思った。
七月の朝、空気はまだ湿り気を帯びているのに、光だけがやけに澄んでいる。東京の外れ、国分寺市にある小さな寺院の境内を歩きながら、奏は自分でも不思議なほど足が止まらないことに気づいていた。
ここに来ようと思ったのは、突然だった。昨夜、夢の中で祖母の声を聞いた。祖母は三年前に亡くなっていて、それ以来、夢に出てくることさえなかった。なのに昨夜だけは違った。
「蓮を見においで」
それだけだった。声の質感まで、生きていた頃のままだった。
奏は三十二歳で、広告代理店に勤めている。仕事はできる方だと自分では思っている。ただ、去年の春から何かがずっとおかしい。なんとなく疲れが取れない。なんとなく涙もろい。なんとなく、自分が誰かに向かって謝り続けているような感覚がある——誰に、何のために謝っているのかも、わからないまま。
心療内科では「適応障害の傾向」と言われた。薬は飲みたくなかったから、もらわなかった。
境内の奥に、小さな池があった。
そこに蓮があった。
奏は息をのんだ。
泥の中から、真っ白な花が三輪、静かに開いていた。朝の光の中で、その白さは現実のものとは思えなかった。花びらの縁がかすかにピンク色に染まっていて、水面に映った影がゆらゆらと揺れていた。
「来たね」
声に振り向くと、老いた尼僧が縁台に腰かけていた。白髪を短く刈り込み、目だけが若々しく、深い光を帯びていた。
「おばあちゃんから聞いてたよ。あなたが来るって」
第二章 三年前の約束
尼僧の名は澄子(すみこ)といい、奏の祖母・文江(ふみえ)の幼馴染みだった。
二人は縁台に並んで座り、池を眺めながら話した。澄子は文江の最後の日々のことを語り始めた。
「文江さんは死ぬ直前まで心配してた。あなたのことを」
「私のことを?」
「あなたが重いものを背負いすぎてるって。昔からそういう子だったって。人の痛みをもらいすぎる、ってね」
奏は黙って蓮を見ていた。
「ねえ、奏さん。あなた、最近よく謝りたくなるでしょう。理由もわからずに」
奏の胸が、ぎゅっとなった。
「……なんで知ってるんですか」
「それはね」と澄子はゆっくりと言った。「あなたの中に、文江さんの記憶があるからだよ。魂の記憶っていうのかね。あの人はね、生きている間ずっと後悔してたことがあったんだよ」
文江が若い頃、一人の友人を失っていた。昭和三十年代、まだ貧しかった時代に、その友人は自ら命を絶った。文江は「気づいてやれなかった」と、死ぬまで自分を責め続けたという。
「でもね、文江さんは逝く前に言ってた。もう許してもらえた気がするって」
澄子が空を見上げた。雲が一つ、ゆっくりと流れていった。
「魂はね、つながってるんだよ。生きてる人と、逝った人と。文江さんはあなたを通して、まだここにいる。あなたが感じてる謝罪の気持ちは、あなたのものじゃなくて、文江さんが解放できなかった感情の残滓なのかもしれない」
「それじゃあ私は——」
「あなたはね」と澄子は柔らかく遮った。「文江さんの分まで、ここで生きてあげてほしいんだよ」
第三章 泥の中の根
昼近くになって、奏は一人で池のほとりに戻った。
澄子は「ゆっくりしていきなさい」と言って、奥の座敷に引っ込んでいった。
奏は蓮の花を、今度はじっくりと見た。
蓮というのは不思議な花だ、と奏は思った。あれだけ清らかな白さなのに、根は泥の中にある。しかも泥があるからこそ、咲ける。泥がなければ、栄養がなくて枯れてしまう。
自分はずっと、泥を嫌ってきた。
悲しみも、怒りも、罪悪感も、どれも泥に見えた。早く乾かして、早く片付けて、また白くなろうとしてきた。だから疲れていたのかもしれない。
奏は、ゆっくりと蓮に向かって手を合わせた。
何に祈るのかは、うまく言葉にできなかった。ただ、合わせた手のひらの中に、何かがこみ上げてくるのを感じた。
おばあちゃん。
一言だけ、心の中で呼んだ。

すると——これは気のせいだと後から何度も思い直したが——水面がふっと揺れた。風もないのに。そして蓮の花びらが、かすかに開いたような気がした。
奏の目から、涙が落ちた。
止めようとしなかった。今日は、止めなくていいと思った。
泥の中に根を張っていい。悲しみの中に座ったまま、それでも花を咲かせていい。そういうことを、蓮は三年間ずっとここで教えていたのかもしれない、と奏は思った。
第四章 最後の転生
夕方になって、澄子が茶を持ってきてくれた。
二人は今度は黙って、お茶を飲んだ。
「澄子さん」と奏はしばらくしてから言った。「転生って、あると思いますか」
「あると思うよ」と澄子は即答した。「でも、最後の転生ってものもあると思ってる」
「最後の?」
「魂がね、もう十分に学んで、もうここに戻ってこなくてもよくなる時が来るんだよ。卒業みたいなもの。文江さんはね、きっとそれだったと思う。あの人の魂はもう、次の場所に行く段階だったんだと思う」
奏は蓮を見た。
「だから手放せた、ってこと?」
「そう。長い長い旅の最後に、やっと重いものを置いて、軽くなって、先に進んでいったんだよ」
澄子はお茶を一口飲んで、続けた。
「でもね、逝く前にちゃんとバトンを渡すんだよ、魂ってものは。愛を渡す。希望を渡す。文江さんはあなたに渡したんだと思う」
奏の胸に、あたたかいものが広がった。
謝罪ではなく、感謝だった。
おばあちゃんは謝りたかったんじゃなくて、ありがとうを言いたかったんだ、と奏は理解した。あの晩年の、皺だらけの手の温もり。「奏はいい子だ」と何度も言ってくれた声。「あなたの人生を生きなさい」と言ったあの夜。
すべてが、バトンだった。
第五章 朝の光の中で
翌朝、奏はもう一度だけ池を訪れた。
今日は早くに会社に戻らなければならない。でも、その前にどうしても来たかった。
夜明けの光の中で、蓮はまた違う顔を見せていた。昨日とは別の蕾がひとつ、開きかけていた。
奏は静かに手を合わせた。
今度は、ちゃんと言葉にできた。
——おばあちゃん、ありがとう。先に行ってくれてありがとう。道を照らしてくれてありがとう。あなたが感じた悲しみも、抱えた後悔も、私はちゃんと受け取った。でも今日からは、それを重荷にするんじゃなくて、根っこにする。泥の中の根っこに。
——地球に残った私は、ちゃんと生きます。
風が吹いた。
蓮の葉が揺れ、水面に波紋が広がり、朝の光が池全体に散らばった。
奏は深呼吸をして、顔を上げた。東京の空は青く、今日も夏が来ていた。
エピローグ
その年の秋、奏は仕事を少し変えた。大きな転職ではなく、社内で「ウェルネス広告」の部門に異動した。心が疲れた人に届く言葉を作る仕事だ、と自分では思っている。
毎月一度、国分寺の寺院に通うようになった。澄子に会いに行くというより、蓮に会いに行く感じだった。冬には蓮は枯れて、池は静かになった。それでも奏は来た。根は泥の中で生きている、と知っていたから。
そして翌年の七月、また蓮が咲いた。
白い花びら、ピンクの縁、泥の底に張った根。
奏は手帳に、こんなことを書いた。
感謝の気持ちを込めて蓮の花に祈りを捧げる。地球に残ってくれた魂に感謝、敬意を込めて。最後の転生終え新たな道へと進む勇気を。メッセージ受け、愛と希望胸に生きていこう。
それは詩だった。どこから来た言葉なのか、奏にはわからなかった。
ただ、書きながら思った。
愛は、死んでも消えない。 魂は、終わっても続く。 そして私は、今日も蓮の花のように、 泥の中に根を張りながら、光に向かって咲いていく。
それだけで、十分だった。

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あなたの魂の物語を生きる