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鏡の奥に光がある

鏡の奥に光がある

鏡の奥に光がある


第一章 嵐の中の男

田中誠司は、三十七歳の秋を泥の中で過ごしていた。

五年がかりで立ち上げたプロジェクトが白紙に戻った。担当していた大手クライアントが競合他社に乗り換え、上司からは「君の判断力を疑う」と会議室で面と向かって言われた。帰宅すれば妻の沙織は台所に立ったまま振り返りもせず、娘の美咲は自室に閉じこもって夕食も共にしない。

誠司は毎晩、リビングの灯りだけを頼りにウイスキーを一杯飲んだ。飲みながら、数字を眺めた。売上、損失、離反したクライアント数、残された予算。数字はどこまでも冷たく、現実の輪郭を鮮明に浮かび上がらせた。

「俺はすべて間違っていた」

その言葉が、毎晩のように喉の奥から這い上がってきた。

十月のある夜、誠司は眠れずに近所の公園へ出た。街灯が濡れたベンチを照らし、落ち葉が風に舞っていた。ポケットに手を突っ込んで歩いていると、ベンチの端に小さな老人が座っているのに気がついた。

齢は七十を超えているだろうか。白髪を短く刈り、薄手のコートを着て、膝の上に何かを広げていた。夜中の公園でひとり座る老人の姿は、しかし奇妙なほど静かで、落ち着いていた。

「眠れないのか」

老人は誠司を見もせずに言った。

「……ええ、まあ」

「座るといい。ここには誰も来ない」

誠司はなぜか断れなかった。老人の隣に腰を下ろすと、膝の上に広げていたのは古いスケッチブックだとわかった。鉛筆で何かが描かれているが、夜の光では見えなかった。

「あなたは何をしているんですか、こんな時間に」

「木を描いている」老人は静かに答えた。「あの欅を、もう三十年描いている」

街灯の先に、大きな欅の木が立っていた。葉はほとんど落ちて、黒い枝が夜空に向かって伸びていた。

「同じ木を、三十年も?」

「毎年違って見える」老人は鉛筆を走らせながら言った。「だが本当は、木は何も変わっていない」

誠司にはその意味がわからなかった。


第二章 見えているものと、見えていないもの

老人の名は、川口正道といった。元は高校の美術教師で、定年後は毎日この公園に来てスケッチをしているという。妻は十二年前に亡くなり、子どもはいない。それでも川口は「寂しい」という言葉を一度も使わなかった。

翌週も、誠司は同じ時間に公園へ来た。川口はまた同じベンチにいた。

「また来たか」

「眠れなくて」

「いい習慣だ」

二人は並んで座り、川口がスケッチをする間、誠司は自分の状況を少しずつ話した。プロジェクトの失敗、クライアントの離反、妻との距離、娘の沈黙。川口は手を止めず、しかし確かに聞いていた。

「君は何が怖いんだ」川口がようやく口を開いた。

「失敗が怖い、というより……もう信用されないのが」

「それは現象だ」

「現象?」

川口はスケッチブックを閉じ、欅の木を指さした。

「冬になれば葉が落ちる。枝だけになって、みすぼらしく見える。だが木の本質は変わっていない。根は地の下に張り続け、春を待っている。君はいま、自分の葉が落ちた姿を見て、木ごと枯れたと思っている」

誠司は黙っていた。

「数字は現象だ。評価も現象だ。君の妻が振り返らないのも、娘が部屋に閉じこもるのも、現象だ。現象は変わる。だが君の本質——なぜ仕事をしているのか、なぜ家族を大切にしたいのか、その核にあるもの——それは揺らいだか?」

誠司は考えた。長い間、考えた。

「……揺らいでいない、と思います。でも、自信がなくて」

「自信は現象だ」川口は静かに言った。「本質ではない」

その夜、誠司は久しぶりに深く眠った。


第三章 受け入れるということ

挿絵

十一月になった。

誠司は少しずつ、川口の言葉を日常に持ち込もうとした。

朝、鏡を見るとき。くすんだ目、深くなったほうれい線、白髪の増えた生え際。それらは現象だ、と誠司は思った。では本質は何か。——鏡の奥にいる自分は、何者なのか。

会議室で部長に詰められるとき。失ったクライアントのリストを読み上げられるとき。誠司は以前なら頭が真っ白になった。しかし今は、波が来ているのを感じながら、足の裏で地面を踏みしめる感覚を持とうとした。嵐は現象だ。自分という木は、ここに立っている。

ある夜、娘の美咲が珍しくリビングに出てきた。

「お父さん、最近なんか変わった?」

誠司は驚いて振り返った。美咲は十五歳で、この半年ほとんど口をきいていなかった。

「変わった……かな」

「なんか、前みたいに焦ってない感じがする」

その言葉が誠司の胸に刺さった。自分は焦っていたのだ。ずっと。成果を出すことに、認められることに、正しくあることに。そして焦りを家族にもぶつけていた。現象に振り回されて、本質を見失っていた。

「美咲、ごめんな」

「え、急に何」

「うまく言えないけど、ちゃんと見ていなかった。お前のことも、お母さんのことも」

美咲は少し黙ってから、「まあいいけど」と言って冷蔵庫を開けた。それだけの会話だったが、誠司には何かが動いた音がした。扉が、わずかに開いた音。


第四章 本質は光を持っている

十二月の初め、誠司は川口に一枚の絵を見せてもらった。

三十年かけて描き続けた、同じ欅の木。春夏秋冬、それぞれ何十枚もある。葉が茂る夏の絵は豊かで力強い。葉が落ちた冬の絵は、しかし細い枝一本一本に奇妙な美しさがあった。

「冬の木が一番好きです」誠司は言った。「骨格が見える」

「そうだ」川口は嬉しそうに目を細めた。「葉がある時は、本質が隠れる。葉が落ちて初めて、木の本当の形が見える。君も今、葉が落ちた時期だ」

誠司はその言葉をゆっくり飲み込んだ。

「受け入れる、ということですか。この状況を」

「抵抗するな、ということじゃない」川口は言った。「嵐は嵐として感じていい。痛みは痛みとして感じていい。ただ、それがすべてだと思うな。現象の下に、君の本質がある。そこに光がある。それを見失わなければ、必ず春は来る」

誠司は公園の欅を見上げた。葉はすっかり落ちて、黒い枝が冬空に伸びていた。しかしその枝の先に、目を凝らすと、小さな芽の膨らみが見えた。まだ開いていない、けれど確かにそこにある命の準備。

「信じるんですね」誠司は静かに言った。「扉は開かれていると」

川口は何も言わず、ただ頷いた。


エピローグ 光の中で

翌年の春、プロジェクトは形を変えて再始動した。

失ったクライアントは戻らなかった。しかし新しいパートナー企業との提携が生まれ、誠司は以前とは違う視点で仕事に向かっていた。数字を追うのではなく、その数字の奥にいる人間を見ようとするようになった。何のためにこの仕事をするのか、という問いを毎朝自分に投げかけるようになった。

妻の沙織は、ある日「あなた、最近話しやすくなったね」と言った。それだけだった。しかしそれで十分だった。

美咲は春から美術部に入り、時々リビングでスケッチをするようになった。誠司はそれを眺めながら、川口のことを思った。

川口正道は、二月に静かに逝った。

公園のベンチで眠るように、というのは作り話になってしまうが、老人ホームの小さな部屋で、スケッチブックを胸に抱いて、と施設の方から聞いた。誠司は葬儀に出席し、献花台の前で長い間立っていた。

形見として、誠司は一枚の絵をもらった。冬の欅。細い枝が空に向かって伸び、その先に小さな芽が描かれている。

誠司はその絵を、書斎の壁に飾った。

毎朝、その絵を見るたびに、老人の声が聞こえる気がした。

本質を見つめ続けることで、現象が変わる。 心の目で真実を見抜け。 成長への扉は常に開かれている。 受け入れる心こそが、本質を強くする。

枝は今年も芽吹いた。

嵐の年も、静けさの年も、木は同じ場所に立っている。根を地に張り、空に向かって伸び続けながら——本質とは、そういうものだと誠司は今、知っている。


エピローグ

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