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魂の渚にて

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第一章 砂のように崩れていく夜

十一月の雨は、冷たかった。

水無瀬茜(みなせあかね)は、三十四歳になった夜、マンションの六階から東京の夜景を眺めていた。雨粒が窓ガラスを伝って流れる様子を、ただ見ていた。泣く気力もなかった。

職場では今日も後輩に仕事を横取りされた。上司には「メンタルが弱い」と言われた。帰りの電車で財布を落とし、三駅分歩いて帰ってきた。靴の中はぐっしょりと濡れていた。

それだけなら、まだよかった。

本当に辛いのは、これが初めてではない、という感覚だった。

——また、これか。

心の奥底から、そんな声が聞こえる気がした。まるで、ずっとずっと昔から、同じ場所をぐるぐると歩き続けているような、言い表しようのない疲労感。体の疲れではなく、もっと深い場所の疲れ。骨の髄よりも深い、何か。

「私、何のために生きてるんだろう」

声に出すと、その言葉は雨音に吸い込まれて消えた。

茜は、ふと母親のことを思い出した。幼い頃、高熱を出した夜に頭を撫でてくれた母の手。その手のぬくもりを、今でも覚えている。もうずっと会っていない。喧嘩別れのまま、数年が経っていた。

窓ガラスに映る自分の顔を見た。

その瞬間、ふしぎなことが起きた。

自分の目の奥に、見知らぬ風景が映った気がした。砂漠の、夕暮れ。海の、嵐。雪の降る、名も知らぬ村。一瞬の映像たちは、意味もわからぬまま消えていったが、茜の胸には奇妙な感慨が残った。

——私は、長い旅をしてきた。

そんな気がした。


第二章 山の上の老女

翌週末、茜はなぜかわからないまま、電車に乗っていた。

会社の同僚から「奥多摩に行くといい」と言われたことを、ぼんやりと思い出したのだ。誰かに言われたのか、夢で聞いたのか、もうはっきりとは覚えていなかった。

駅から一時間ほど歩くと、古びた神社があった。観光地図にも載っていない、小さな社だった。苔むした石段を上ると、境内の隅に、縁側に腰かけた老婆がいた。

白髪を結い上げ、深い皺の中に穏やかな目をした、八十を超えているであろう女性だった。

「ずいぶん、疲れた顔をしておるね」

茜は驚いて足を止めた。老婆は茜を見ていたのではなく、空を見ていた。それでもその言葉は、確かに茜に向けられていた。

「……はい」

正直に答えると、老婆は静かに笑った。

「魂が疲れておるんじゃよ。体じゃない」

茜は、ぞくりとした。先週の夜に感じたあの感覚と、まったく同じ言葉だったから。

「何のために生まれてきたのか、わからなくなってしまって」

「わからなくなるのは、たくさん味わったからじゃ」老婆は静かに言った。「人はね、味わうために生まれてくる。嬉しいことも、悲しいことも、痛いことも、全部。でも長く生きていると、傷が積み重なって、重くなる。それは今生だけの傷じゃない。もっと古い傷もある」

「もっと古い、傷」

「あなたは感じたことがないかい。初めて会った人なのに、なぜか懐かしい、とか。初めて行った場所なのに、知っている気がする、とか」

茜は頷いた。ある。何度も、ある。

「それはね、魂の記憶なんじゃよ。あなたは長く旅をしてきた。だから疲れておる。でもね」老婆はここで初めて、茜の目を見た。「疲れた魂を癒してくれるものが、ちゃんとあるんじゃ。目には見えないけれど、いつもそばにいる。大きな存在がね」

風が吹いた。神社の木々がざわりと揺れた。

「どうすれば、会えますか」

老婆はもう一度笑って、縁側から立ち上がった。

「会う必要はないんじゃよ。気づくだけでいい。感謝するだけでいい。それだけで、十分なんじゃ」

そう言って、老婆は社の中へと入っていった。茜が追いかけると、中には誰もいなかった。開け放たれた窓から、冬の光が差し込んでいるだけだった。


第三章 夢の中の海

その夜、茜は夢を見た。

広い、広い海の前に立っていた。空も海も、橙色に染まっていた。夕暮れか、夜明けか、わからなかった。

茜の隣に、誰かが立っていた。

顔は見えなかった。ただ、その存在の大きさは、空と同じくらいあった。言葉はなかった。ただ、そこにいた。

「あなたは、誰ですか」

茜が聞くと、答えの代わりに、ぬくもりが来た。

幼い頃、高熱の夜に感じた母の手のぬくもりに似ていた。でも、それよりもずっと大きかった。宇宙全体が、やさしく茜を包むような感覚だった。

挿絵

涙が出た。

夢の中で、茜は泣いた。声を上げて泣いた。何十年分か、あるいは何百年分かわからない涙が、止めどなく流れた。

「ずっと、いたんですね」

そう言うと、またぬくもりが増した。

——ずっといた。あなたが気づかなかっただけで。

言葉ではなく、直接、胸の中に意味が降ってきた。

——疲れたね。よく頑張った。もう少し、休んでいいよ。

茜は海の砂の上に膝をついた。砂は温かかった。

「ありがとう」

声に出したとき、夢が終わった。


第四章 朝の光の中で

目が覚めると、東の空が白んでいた。

茜は、しばらく天井を見ていた。胸の中に、何か柔らかいものがあった。昨夜まで鉛のように重かった場所に、小さな光があるような気がした。

スマートフォンを手に取ると、母からメッセージが来ていた。三年ぶりだった。

「元気にしてる? 先週、夢であなたが泣いてるのを見て、心配になって。もしよかったら、たまには帰っておいで」

茜は長い間、その文章を眺めていた。

泣いた。今度は、夢の中とは違う、柔らかい涙だった。

母に電話をかけた。五回のコールの後、懐かしい声が聞こえた。「もしもし」というその声に、茜は「お母さん」とだけ言った。それ以上は言葉にならなかった。しばらく、互いに泣いていた。

電話を切った後、茜はベランダに出た。

十一月の朝の空気は冷たかったが、先週の雨とは違い、澄んでいた。遠くに、うっすらと富士山のシルエットが見えた。

——ああ、きれいだな。

そう思った瞬間、老婆の言葉が甦った。

味わうために、生まれてきた。

嬉しいことも悲しいことも痛いことも、全部。目には見えない大きな存在が、ずっとそばにいて、傷ついた魂を静かに癒し続けている。

茜はゆっくりと、両手を合わせた。

誰かに見られていたら、変に思われるかもしれない。でも、構わなかった。

「ありがとうございます」

声に出して、言った。

風が吹いた。富士山の輪郭が、朝もやの中でやさしく揺れた。


エピローグ

それから半年が経った。

茜の生活は、劇的には変わっていない。仕事は相変わらず大変だし、人間関係もすべてがうまくいくわけではない。でも、何かが違った。

重さが、違った。

胸の奥の、あの疲れ——何百年もかけて積み重なってきたような、深い疲れ——が、少しずつ、少しずつ、解けていくような気がした。

奥多摩の神社には、また行った。老婆はいなかった。社務所の人に聞いても、そんな老婆は知らないという。でも茜は、それでよかった、と思った。

母と月に一度、電話をするようになった。先月は一緒に温泉に行った。湯船の中で、母は「あなたが生まれてきてくれて、本当によかった」と言った。茜は「私も」と答えた。それだけで、十分だった。

夜、眠る前に茜は必ず、目を閉じる。

そして、感じようとする。

目には見えない、大きな存在を。ずっとそばにいて、疲れた魂を静かに抱きしめてくれているものを。

感じられる夜も、感じられない夜もある。

でも、いると知っている。

それだけで、明日を生きることができる。


味わうために、私たちは生まれてきた。 長い転生の旅の果てに傷だらけになっても、 目には見えない大いなる存在が、 いつも静かにそばで待っている。

気づくだけでいい。 感謝するだけでいい。

それだけで、魂は少しずつ、癒されていく。

エピローグ

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ソウルミッション358

あなたの魂の物語を生きる