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奥底の光

奥底の光

奥底の光

第一章 欠けたピース

三十四歳の春、佐藤圭介は東京・目黒の小さなカフェの窓際に座り、冷めたコーヒーを見つめていた。

テーブルの上には、二週間前に届いた封筒が置いてある。「不採用」の文字が、また一つ増えた。マーケティング部長の椅子を目指して五年間、転職活動を続けて七回目の壁だった。

窓の外では、スーツ姿の人々が足早に通り過ぎていく。みんな何かを持っている、と圭介は思う。確かな地位、揺るぎない自信、満たされた生活。自分だけが、どこかに置き忘れた何かを探し続けているような気がしてならない。

帰宅すると、同い年の妻・由佳が夕食の準備をしていた。テーブルに並んだ料理を見て、圭介は気づく。彼女はもう何も聞かない。聞けないのだ。

「ただいま」

「おかえり」

それだけの言葉が、二人の間に静かに落ちた。

夜、風呂に浸かりながら圭介はスマートフォンをスクロールする。大学の同期が昇進した投稿。後輩が起業して成功した記事。同窓会の写真に映る笑顔たち。画面の中の世界は、どこまでも眩しく、どこまでも遠かった。

俺には何もない。

その言葉が、胸の中で石のように沈んでいった。


第二章 山の上の老人

翌週末、逃げるように東京を離れた圭介は、長野の山中にある古い宿に泊まっていた。特に目的はなかった。ただ、あの部屋にいられなかった。

朝、宿の縁側で霧に包まれた山を眺めていると、隣に老人が腰を下ろした。七十代だろうか、白髪で背筋が真っすぐな男性だった。

「いい顔してますね」と老人は言った。

圭介は思わず苦笑した。「そうですか。自分では最悪だと思っていますが」

「そうじゃない」老人はゆっくり首を振る。「探している顔です。それは悪い顔じゃない。多くの人は、もう探すのをやめてしまっているから」

圭介は黙って霧を見た。老人も黙った。二人の間に、山の静けさだけがあった。

しばらくして老人が続ける。「あなたは今、何を持っていないことを悔やんでいますか」

直球の問いに、圭介は戸惑った。けれど何故か、嘘をつけなかった。

「地位です。認められること。それから……自分が何者かという確信」

老人はうなずいた。「それを手に入れたら、あなたは満たされますか」

「……おそらく」

「私も昔、そう思っていました」老人は縁側の端を指先でなぞった。「私は大学教授でした。論文を書き、学会で認められ、後輩に尊敬された。すべてを手に入れたと思った夜、妻が死にました」

圭介は息を飲んだ。

「地位も名誉も、妻の最後の呼吸一つを引き止めることができなかった。そのとき私は初めて気づいたのです。私がずっと探していたものは、外側にはなかった、と」

霧が少しずつ晴れ始め、遠くの山頂が姿を現した。

「では、どこにあったんですか」

老人は自分の胸の中央を、静かに手のひらで押さえた。


第三章 欲求の根源

東京に戻った圭介は、老人の言葉を何度も反芻した。

外側にはなかった。

ある夜、由佳が寝入った後、圭介は一人リビングに座った。明かりを消して、ただ暗闇の中にいた。

なぜ、地位が欲しいのか。

認められたいから。

なぜ、認められたいのか。

自分に価値があることを証明したいから。

なぜ、証明しなければならないのか。

……価値がない、と思っているから。

そこで手が止まった。思考が、核心に触れた瞬間だった。

圭介はゆっくりと目を閉じた。記憶が浮かんだ。小学校の運動会で転んで、父に「なにやってんだ」と言われた日。高校受験に失敗して、母の泣く声を壁越しに聞いた夜。就職した会社で最初の企画書を上司に破り捨てられた朝。

ずっと証明しようとしていた。

でも、誰に?

父は三年前に他界した。母は今は穏やかに老いている。あの上司はとっくに別の会社に去った。

圭介は、存在しない審判に向かって走り続けていたのだ。

涙が、音もなく頬を伝った。

そのとき、由佳が廊下から顔を出した。

「圭介?」眠そうな目が、暗闇の中の圭介を見つけた。「どうしたの」

挿絵

「……ごめん、由佳」

「何が?」

「ずっと、ちゃんと見えてなかった」

由佳は黙ってリビングに入り、圭介の隣に座った。何も聞かずに、ただそこにいた。

その温もりが、胸の奥の何かをゆっくりと溶かしていった。


第四章 今という場所

翌朝、圭介は早起きして近所の公園を歩いた。

桜がちょうど散り始めていた。ピンクの花びらが風に舞い、足元に積もっていく。圭介はベンチに座り、何もせず、ただ花びらの落ちるさまを見ていた。

これまでなら、こんな時間は「無駄」だと感じた。何かを達成していない時間、前進していない瞬間は、全部が焦りの素材になった。

でも今朝は、違った。

花びらが一枚、膝の上に落ちた。圭介はそれを拾って、手のひらに乗せた。薄くて、柔らかくて、すぐに茶色くなって消えてしまうもの。でも今この瞬間、こんなにも美しかった。

持っていないものに囚われずに、今を生きる。

老人の言葉ではなく、もっと深いところから、その感覚が湧き上がってきた。

スマートフォンが鳴った。知らない番号だった。

「佐藤圭介さんですか。先日応募いただいた件でご連絡しているのですが——」

採用の連絡だった。

けれど奇妙なことに、圭介の心は静かだった。喜びはある。でも以前のような「これで証明できた」という勝利感ではない。もっと落ち着いた、地に足のついた感覚だった。

電話を切って、圭介はもう一度空を見上げた。

空は、ただ青かった。


第五章 解き放つとき

一ヶ月後、圭介は新しい職場で働いていた。

マーケティング部長ではなく、課長職だった。以前なら「また届かなかった」と感じただろう。でも今は、そこが出発点だと思えた。

休日、圭介は由佳と長野の山を再び訪れた。あの宿で老人に会えるかと思ったが、宿の主人に聞くと「そんなお客様は最近いらっしゃっていません」という答えが返ってきた。

それでもいい、と圭介は思った。

あの老人が実在の人物だったのか、それとも自分の中の何かが外側に現れたのか、もう確かめる必要はなかった。

縁側に座り、霧に包まれた山を二人で眺めた。

「ねえ、圭介」由佳が静かに言った。「最近、なんか変わったよね」

「そう?」

「うん。前は、いつもどこか遠くを見てた。今は……ここにいる」

圭介は由佳の手を握った。由佳が少し驚いて、それからやわらかく握り返した。

山の霧が、ゆっくりと動いている。どこからともなく鳥の声が聞こえる。遠くの杉の木が風に揺れる。

何一つ、特別なことは起きていない。

でも圭介の胸の中で、長い間閉じられていた扉が、静かに——そして確かに——開いていくのがわかった。

光は外から差し込んできたのではなかった。

ずっとそこにあったのだ。ただ、気づかなかっただけで。


エピローグ

秋になった。

圭介は毎朝、少しだけ早く起きて公園を歩くようになった。特別なことは何もしない。ただ歩き、空を見て、自分の呼吸を感じる。

かつて「何も持っていない」と思っていたものが、今は違う形で見えている。喪失だと思っていたものが、実は入り口だった。足りないと感じていた空白が、実は広がりのための余白だった。

欲求の根源を見つめたとき、人は初めて本当の自分に出会う。

持っていないものへの囚われを手放したとき、今この瞬間が還ってくる。

そして——胸の奥底に、ずっとあり続けた光を解き放つ時、人は誰かを愛することができる。本当の意味で。

圭介は今日も、桜のない公園を歩く。花びらはないが、木々は静かに立っている。ベンチに座り、冷たい朝の空気を吸い込む。

何も持っていなくていい。

今ここにいる、それだけで十分だと——

初めて、心の底から、そう思えた。

エピローグ

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