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魂は、忘れない

魂は、忘れない

魂は、忘れない


第一章 恐怖の正体

緩和ケア病棟の廊下は、夕暮れ時になるといつも橙色に染まる。

春野遥(はるのはるか)は三十七歳の看護師で、この病棟に勤めて八年になる。死に慣れているはずだった。毎月のように患者を看取り、泣き崩れる家族の肩を抱き、遺体を清めてきた。それでも、ある感覚だけはどうしても消えなかった。

――自分も、いつか忘れられる。

それは理性では否定できる感覚だ。でも夜、消灯後の病棟を歩くとき、どこからともなくその恐怖が這い上がってくる。自分が死んだとき、自分を覚えている人間は何人いるだろう。そのまた五十年後には、自分が存在したという事実さえ、誰の記憶にも残らないのではないか。

その夜も遥は、そんな思いを抱えながら巡回をしていた。

廊下の突き当たり、六○八号室から、かすかな光が漏れていた。

新しい患者だ。七十八歳の男性、永瀬光一(ながせこういち)。末期の膵臓がん。余命は二ヶ月とされていた。

遥が顔を覗かせると、永瀬は窓の外の暗い空を眺めていた。酸素チューブをつけながら、しかし表情は穏やかで、どこか別の場所を見ているような目をしていた。

「眠れませんか」と遥は囁いた。

「眠れないんじゃない」と老人はゆっくり振り返った。「見ていたいんだ、あの星を」

遥は窓の外を見た。雲間に、一つだけ星が光っていた。


第二章 魂の言葉

翌日から、遥は永瀬の担当になった。

永瀬は元高校の国語教師だった。生涯独身で、五年前に妻を亡くし、子どもはいなかった。身寄りとしては遠方に住む姪が一人いるだけで、見舞いはほとんどなかった。

「寂しくないんですか」と遥はある昼下がり、思い切って聞いた。

永瀬は点滴の管を見つめながら、少し間を置いて答えた。

「以前はそう思っていた。妻が逝って、教え子たちも散り散りになって。わしが死んでも、誰も覚えていないんじゃないかってな」

遥の胸が、ぎゅっと締まった。

「でも今は?」

「今は違う。魂というものが、記憶よりずっと大きなものだと分かったから」

遥はそっと椅子を引き寄せ、座った。

永瀬は話し始めた。三年前、一度だけ臨死体験をしたこと。心臓が一時停止し、意識が体を離れた数分間、温かい光の中に包まれた感覚。その光の中で、妻の気配を感じた。声ではなかった。言葉でもなかった。ただ、「在る」という確かな存在感だけがあった。

「人は死ぬと消えてしまうと思っていた。でも違った。あの光の中では、時間がなかった。過去も未来もなくて、ただ、すべてが今、在る。妻も、わしの母も、教え子たちも、みんな在った。忘れていたわけじゃない。ただ、別の次元で続いていたんだ」

遥は息をするのを忘れていた。

「先生は、怖くないんですか。死ぬことが」

永瀬は微笑んだ。シワだらけの顔に、不思議な若さが宿った笑顔だった。

「恐怖はエゴのものだよ」と彼は言った。「わしという肉体が、わしという名前が消えることへの恐怖だ。でも魂はそんなものに縛られていない。魂はもっと広い。記憶を超えている。名前を超えている」


第三章 過去と未来の間で

それから二週間、遥は休憩時間のたびに六○八号室を訪ねるようになった。

永瀬は弱っていった。痛みが増し、食事が取れなくなり、眠る時間が長くなった。それでも意識がある時間は、いつも穏やかだった。

ある雨の夜、遥は夜勤の合間に部屋を覗いた。永瀬は目を開けていた。

「夢を見ていた」と彼は言った。「子どもの頃の夢じゃなかった。もっと昔の、どこかの、わしじゃないわしの夢だ」

「それって……前世、ですか」

「そうかもしれない。江戸時代の職人みたいな男だった。貧しくて、何も残せなかった。家族に迷惑をかけながら死んでいった男だ。でも夢の中で、その男が言っていた。『大丈夫だ』って」

「大丈夫、って」

「魂は何度でもやり直せる、って。失敗しても、傷ついても、忘れられても、また戻ってくる。成長するために。もっと光になるために。肉体の死は、終わりじゃない。通過点なんだ」

遥の目に、涙がたまり始めた。

「私、怖いんです」と彼女は小声で言った。「死ぬことが、じゃなくて。忘れられることが。私が生きた証が、何も残らないことが」

永瀬はゆっくり手を伸ばし、遥の手を握った。骨ばった、冷たい手だった。でもその温もりは確かにあった。

「あなたは今、誰かの魂に触れている。わしも、あなたの魂に触れている。この出会いは、記憶の中にしか残らないかもしれない。でもね、魂の記憶は消えないんだ。次の生でも、その次の生でも、どこかで、この温かさを覚えている」

挿絵


第四章 光の通過点

十一月の終わり、永瀬の状態が急変した。

朝の四時過ぎ、モニターのアラームが鳴り、遥は走った。呼吸が浅くなっていた。姪に連絡が取れるまで時間がかかった。遥は永瀬の手を握り続けた。

「先生、聞こえますか」

薄く目が開いた。焦点は合っていなかった。でも口元が、かすかに動いた。

遥は耳を近づけた。

「……きれいだ」

それだけだった。

そして永瀬光一は、静かに息を引き取った。

遥は泣かなかった。泣けなかったのではなく、なぜか泣く必要を感じなかった。不思議なほど穏やかな気持ちで、その手の温もりが消えていくのを感じていた。

窓の外は、まだ暗かった。でも東の空の端に、ほんの少し、藍色が滲み始めていた。

遥はふと思った。今この瞬間、永瀬は光の中にいるのかもしれない。妻と、教え子たちと、何度も繰り返してきた命たちと、再び「在る」という感覚の中にいるのかもしれない。

忘れられることを恐れていた彼が、今は何も恐れていない場所にいる。


第五章 手放すということ

翌週、遥は初めて心療内科を訪れた。

長年抱えていた死への恐怖、忘れられることへの不安。それらを初めて声に出して語りながら、遥は気がついた。自分が恐れていたのは、「無になること」ではなく、「意味がなかったこと」だったのだと。

でも永瀬と過ごした時間は、確かに意味があった。何も有名にならなくても、何も残さなくても、二つの魂が触れ合い、何かが変わった。それは記録されなくても、記憶が消えても、どこかに刻まれている気がした。

遥は病棟に戻り、また患者たちの傍に立った。

でも今日からは少し違った目で、その顔を見ることができた。この人も、長い魂の旅の途中にいる。この出会いも、偶然ではなく、どこかで繋がっていた縁なのかもしれない。

恐怖を手放したとき、不思議と、胸の中に光のようなものが灯った。

それが魂の光というものなのか、遥にはまだ分からなかった。でも確かに、何かが、そこに在った。


エピローグ

春になった。

遥は休日、一人で近くの公園を歩いていた。桜が散り始めていた。花びらが風に舞い、地面に積もり、また風に飛ばされていく。

消えていくのではなく、形を変えているのだと、今の遥には思えた。

ポケットの中に、永瀬が残した一枚の紙がある。彼の姪から、「伯父が大切にしていた」と手渡されたものだった。

遥はそれを取り出し、読んだ。永瀬の字で、こう書かれていた。


忘れ去られる恐怖 それはエゴの叫び

魂は記憶を超え 永遠に存在し続ける

肉体の死さえも 通過点に過ぎない

生まれ変わりの中で 魂は成長を続ける

恐怖を手放して 魂の光を放つ

絶対に忘れない その想いを力に


遥は紙を胸に押し当てた。

忘れられても、いい。

でも、忘れない。あの手の温もりを、あの穏やかな笑顔を、あの言葉を――魂が続く限り、どこかで、ずっと。

桜の花びらが一枚、遥の肩に舞い降りた。

彼女はそっと微笑み、また歩き始めた。

――了――

エピローグ

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ソウルミッション358

あなたの魂の物語を生きる