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言葉にならぬ光の中で

言葉にならぬ光の中で

言葉にならぬ光の中で


第一章 崩れた朝

目が覚めた瞬間、また今日も来てしまったと思った。

田村栞(たむら しおり)は三十八歳。かつては都内の広告代理店でコピーライターとして働き、言葉を商売にしていた女だった。だが今は、横浜の外れにある古い木造アパートの天井を、毎朝ただ見つめるだけだった。

夫の誠が家を出てから、もうすぐ一年になる。理由は「一緒にいると息が詰まる」という、あまりにも短い言葉だった。栞はそれに反論できなかった。自分でも、自分と一緒にいると息が詰まる気がしていたから。

会社は半年前にリストラで辞めた。正確には「希望退職」という名の肩たたきだった。言葉の仕事をしていた人間が、いとも簡単に言葉のトリックで職を失う。それ以来、栞は言葉というものを信じられなくなった。

冷蔵庫の中には、賞味期限が近い豆腐と、半分になった醤油だけがあった。

栞は布団から出ることができず、ただ窓から差し込む灰色の光を眺めていた。祈ることもできなかった。神様に何を頼めばいいのか、もうわからなかったから。


第二章 川沿いの老婆

十一月のある午後、栞はようやく外に出た。このまま部屋にいると、本当に消えてしまいそうな気がしたからだ。消えることへの恐怖が、かろうじて彼女を動かしていた。

川沿いの遊歩道を、目的もなく歩いた。枯れ葉が水面に落ちていた。流れに逆らわず、ただ運ばれていく葉を見ながら、自分もあんなふうに流れていければと思った。

「寒いねえ」

声がしたので振り返ると、ベンチに小さな老婆が座っていた。八十は超えているだろうか。白い髪をきちんと結い上げ、薄い水色のカーディガンを羽織っていた。手には何も持っておらず、ただ川を見ていた。

「ええ、まあ」と栞は答えた。

「あなた、ずいぶん重いものを背負っているね」

栞は驚いて老婆を見た。見知らぬ人にそんなことを言われたのは初めてだった。

「そんなこと……」

「顔に出てるよ。言葉にならないものを、ずっと抱えてる顔だ」

栞の喉が締まった。言葉にならない——その表現が、針のように心に刺さった。

老婆の名前は、松野ふみ子と言った。三年前に夫を亡くし、息子夫婦とは疎遠で、毎日この川沿いのベンチに来るのが習慣だと言った。

「辛いこと、あったの?」

「……全部、なくなりました」と栞は言った。「仕事も、夫も、言葉も」

ふみ子は黙って聞いていた。急かすことも、慰めることも、アドバイスをすることもなく、ただ静かに。その沈黙の中に、栞はひどく安堵した。

「言葉を失ったなら、それでいいじゃない」とふみ子はやがて言った。「言葉が出てくる前の場所、そこに本当の祈りがあるんだから」


第三章 燃やす覚悟

それから栞は、毎週火曜日の午後、川沿いのベンチでふみ子と会うようになった。

ふみ子はよく、自分の若い頃の話をした。戦後の貧しさ、最初の子を産んで間もなく亡くしたこと、夫の事業が二度失敗したこと。それでも笑っていられたのは、と彼女は言った、「今日という日を燃やし尽くすことだけを考えていたから」。

「明日のことは明日に任せる。昨日のことはもう終わった。だから今日、自分にできることを全力でやる。それだけ」

栞にはその言葉が、最初は綺麗事に聞こえた。でもふみ子の皺だらけの手を見ていると、その手が本当に何かを燃やし尽くしてきたことがわかった。

ある日、ふみ子が言った。「あなた、コピーライターだったんでしょ。言葉の仕事」

「もう書けません」

「なぜ?」

「信じられなくなったから。言葉は嘘をつく」

ふみ子は少し考えてから言った。「言葉は道具よ。使う人によって、毒にも薬にもなる。あなたが書く言葉は、薬だったはずでしょ」

栞は黙った。

「誰かを傷つけるために書いてきたの?」

「……いいえ」

「じゃあ、まだあなたの言葉は死んでないわ。ただ、眠ってるだけ」

その夜、栞は久しぶりにノートを開いた。何を書くでもなく、ただペンを持って、白い紙を見つめた。しばらくして、手が動き始めた。言葉ではなかった。最初は線だった。それから、少しずつ文字の形になっていった。

書いたのは、誠へのことではなかった。会社へのことでもなかった。自分の母親への、ずっと言えなかった感謝の言葉だった。十年前に亡くなった母に向けて、栞は初めて、本当のことを書いた。

泣きながら書いた。涙でノートがにじんだ。でも書き続けた。

挿絵

その夜、栞は初めて深く眠れた。


第四章 光が射す朝

十二月になった。ふみ子から電話があったのは、その月の初めのことだった。

「栞さん、ちょっと聞いてほしいことがあって」

会うと、ふみ子は小さな封筒を持っていた。

「地域の広報誌で、コラムを書いてくれる人を探してるんだって。息子の嫁が言うには、プロじゃなくてもいいから、普通の人の言葉を集めたいって」

「私に、ということですか?」

「あなたが適任だと思って。報酬はほとんどないけど」

栞はその封筒を受け取った。手が震えた。

「なぜそんなに……私のことを」

ふみ子は川を見ながら言った。「あなたが最初にここに来た日、私ね、川に向かって手を合わせてたの。亡くなった主人に話しかける癖があってね。そしたらあなたが来た」

「それは偶然では……」

「私の主人ね、生前よく言ってたの。誰かを助けられた日は、自分が生きてる意味を感じるって。私も同じ気持ちになりたかっただけよ」

栞の目から、涙がこぼれた。

助けているつもりのふみ子が、実は助けられていた。助けられているつもりの栞が、実はふみ子の生きる理由になっていた。どちらが与え、どちらが受け取っているのか、もうわからなかった。

そのとき、雲の切れ間から冬の日差しが射した。川面が光り、枯れた葦が金色に輝いた。

栞は、その光の中に立ち尽くした。

言葉は出てこなかった。でも、それでよかった。言葉になる前の場所——そこにあるものを、栞はようやく感じることができた。


第五章 命を繋ぐ

翌年の春、栞は広報誌のコラムを書き始めた。

最初の原稿は、川沿いのベンチで出会った老婆のことを書いた。名前は伏せたが、ふみ子はそれを読んで「うまく書けてるじゃない」と笑った。

コラムは少しずつ読者を集めた。ある読者から手紙が来た。「私も同じような経験をして、この文章に救われました」と書いてあった。

栞はその手紙を何度も読んだ。

言葉は生きていた。

自分が書いた言葉が、見知らぬ誰かの心に届いていた。それはかつて広告のコピーを書いていたときとは、まったく違う感覚だった。商品を売るための言葉ではなく、魂から魂へと届く言葉——そんなものが自分にも書けるのだと、初めて知った。

ふみ子は、その春に体調を崩した。病院へ付き添いながら、栞は思った。この人と出会えたことが、与えられた命の中で最も豊かな瞬間かもしれない、と。

「私ね」とふみ子は点滴を受けながら言った。「若い頃に亡くした子のことを、ずっと悔やんでいたの。あの子に何もしてやれなかったって」

「でも」と栞は言った。「ふみ子さんは私に、してくれました」

ふみ子は目を閉じた。その目尻に光るものがあった。


エピローグ

ふみ子は夏の終わりに静かに逝った。

葬儀の後、息子夫婦から「母が栞さんに」と、一冊のノートを渡された。開くと、ふみ子の丸い文字でびっしりと書かれていた。若い頃の記憶、夫との日々、亡くした子への思い、そして——最後のページに、栞の名前があった。

川で出会った娘さんへ。あなたは言葉を失ったと言ったけれど、本当は違う。言葉が生まれる前の深いところから、あなたはずっと祈り続けていた。その祈りが、私を呼んだのだと思います。苦難の向こうに光がある。それはただの慰めではなく、本当のことです。あなたの命を、どうか燃やし尽くしてください。あなたの豊かな今が、誰かの未来を照らしますように。

栞はノートを胸に抱いた。

川沿いの遊歩道に立つと、春の日差しが水面を揺らしていた。言葉にならない何かが、胸の中で静かに満ちていた。それは悲しみでも喜びでもなく、ただ——生きているということの、深い実感だった。

苦難を乗り越えれば、光が射す。

与えられた命を、燃やし尽くす覚悟で。

豊かに祝福された今を、未来へ繋ぐために。

栞はポケットからペンを取り出し、手のひらにそっと書いた。言葉にならぬ願いを、言葉にするために——今日もまた、歩き始めた。


了

エピローグ

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