魂が静かになる日まで
魂が静かになる日まで
第一章 継ぎ目のない痛み
佐久間凛は、三十七歳になってもまだ、夜明けに泣いていた。
理由がわからない。それが一番つらかった。夫も子もいる。仕事も悪くない。友人もいる。なのに毎朝、夜の終わりが近づくにつれて、胸の奥で何かが軋む。まるで地中に埋まった古い根っこが、誰にも気づかれないまま朽ちていくような、そんな感覚だった。
きっかけは、母の死だった。一年前、脳梗塞で逝った母の遺品を整理していたとき、古い手紙の束を見つけた。差出人の名は知らない男の筆跡で、消印は昭和四十年代。凛が生まれるずっと前の話だ。手紙を読んで、凛は初めて知った。母には愛した人がいた。その人と添い遂げることができなかった。そして死ぬまで、その悲しみを誰にも話さなかった。
凛はその夜、声をあげて泣いた。母のために泣いているのか、自分のために泣いているのか、わからないまま。
その涙は、一年が経っても乾かなかった。
セラピストに勧められ、凛はある週末、長野の山間にある小さな宿泊型ワークショップに参加した。「魂の整理」と銘打ったそのプログラムは、胡散臭い名前のわりに、参加者のほとんどが凛と同じような顔をしていた。疲れていて、でもまだあきらめていない顔。
講師は七十代の老女で、名を谷口芳江といった。白髪を無造作に束ね、作務衣を着て、草鞋を履いていた。最初に彼女が言ったのは、こんなことだった。
「皆さん、悟りたいと思っていますか?」
参加者の多くが、おずおずと頷いた。
「それが問題です」と老女は静かに言った。「悟ろうとする力みが、悟りから一番遠ざけるんです」
第二章 前世という名の抵抗
ワークショップは三日間だった。
初日の夜、瞑想の時間に、凛は奇妙なものを見た。正確には「見た」というより「感じた」というほうが近い。目を閉じると、見知らぬ村の風景が広がった。土の匂い。遠くで子どもが泣いている。自分の手を見ると、ひび割れた、年老いた手だった。凛の手ではない。でも間違いなく「わたし」の手だった。
そしてその手は、誰かの手をずっと握っていた。でも相手はもういなかった。冷たかった。
凛は瞑想から飛び起き、「ごめんなさい」と口走っていた。誰に謝っているのかわからなかった。ただその言葉が、胸の奥から勝手に溢れてきた。
隣に座っていた中年の男性が、そっと肩に手を置いてくれた。その温度が、不思議と懐かしかった。
翌朝、凛は芳江に話した。
「これって、前世の記憶なんでしょうか」
芳江は即座に答えを与えなかった。窓の外の山を少し眺めてから、言った。
「わたしが思うに、感情というのは、一つの魂の時間軸にずっと積み重なっていくものです。今生で悲しいことがあった。それだけじゃなくて、もしかしたらずっとずっと前から、あなたは誰かと別れることへの恐怖を抱えてきたかもしれない。お母さんの手紙を読んで泣いたのは、お母さんの悲しみに触れたからだけじゃない。あなた自身の奥深いところにある、まだ消化されていない何かが共鳴したんじゃないかな」
凛は黙って聞いていた。
「感情の処理って、一生分じゃ足りないことがある。でも、それで良いんです。焦らなくていい」
第三章 味わうということ
二日目の午後、グループワークがあった。
参加者は円座になり、各自が「今世のテーマ」だと思うことを話す。ある男性は「見捨てられること」と言った。若い女性は「自分を許せないこと」と言った。五十代の主婦は「怒りを出せないこと」と言い、涙をこらえた。
凛の番が来た。
「わたしは……喪失、だと思います。大切なものが消えていくことへの恐れ。たぶん、ずっとそれが怖くて、何かを深く愛することを、どこかで避けてきた」
声が震えた。でも、続けた。
「お母さんが死んで、初めてわかりました。ちゃんと愛してたって。ちゃんと伝えればよかったって。もう間に合わないけど、それでも——それを知ることができたのは、お母さんが死んでくれたからなんです」
最後の言葉が出た瞬間、凛は自分でも驚いた。「死んでくれた」という言葉が、非難でも悲しみでもなく、純粋な感謝として出てきた。
誰かがすすり泣いた。それが伝染して、円座全体が静かに揺れた。
芳江は何も言わなかった。ただ目を細めて、凛を見ていた。
第四章 悟った人の静けさ
最終日の朝、凛は一人で外に出た。
山の空気は冷たく、澄んでいた。朝露をまとった草が、光を受けてきらめいていた。凛はただそれを見ていた。美しいと思った。それだけだった。
芳江が隣に来た。
「昨日、何かが解けましたね」と老女は言った。
「はい」と凛は答えた。「でも、悟ったわけじゃないと思います。まだわからないことだらけで」
「そうですよ」芳江はあっさり言った。「悟ったと思う人は、まだ悟っていない。それはね、悟りというのが、到達点じゃないからです。もし到達点だったら、悟った瞬間に『やった』という感情が湧くはずでしょう。でも本当に魂が静まった人は、そういう興奮もない。ただ、ある」
凛は空を見上げた。
「わたしが知っているそういう人たちはね」と芳江は続けた。「今世だけじゃなくて、もっとずっと長い時間をかけて、感情を一つ一つ、溶かしてきている。それは本人も気づかないうちに起きている。努力じゃない。ただ、人生を誠実に生きてきた結果なんです」
「じゃあ、何もしなくていいんですか」
「今をちゃんと生きることです。逃げないで、今世のテーマを、全部味わい尽くすことです。怖いことも、悲しいことも、恥ずかしいことも。逃げた感情は、次に持ち越されるだけだから」
凛の目から、また涙が落ちた。でもこの涙は、昨日までの涙と違った。軽かった。
第五章 根が溶けていく
東京に戻った凛は、少しずつ変わっていった。
母の仏壇の前に座る時間が長くなった。手を合わせながら、声に出して話しかけた。「ねえ、お母さん。あの手紙の人のこと、ちゃんと愛してたんだね。それで良かったと思う。愛したことは、消えないから」
夫に、「ありがとう」と言う回数が増えた。理由のある感謝じゃなくて、ただ存在してくれることへの感謝。夫は最初、戸惑っていたが、やがて同じように「ありがとう」と返すようになった。
瞑想はしなかった。ヨガも始めなかった。スピリチュアルな本も読まなかった。
ただ毎日、ちゃんと泣いた。ちゃんと笑った。ちゃんと怒った。感情が来たとき、逃げないで、受け取った。
半年後のある朝、凛は目が覚めて、気づいた。
夜明けに、泣いていなかった。
それが嬉しいというより——ただ、静かだった。
エピローグ
凛はいまも、悟ったとは思っていない。
たぶん、自分の中にはまだ、何代も前から持ち越されてきた感情の欠片が残っている。次の人生でも、そのまた次の人生でも、少しずつ溶かしていくものが残っているかもしれない。それで良いと思うようになった。
魂は急がない。
ある夜、スマートフォンのメモに、凛は短い言葉を書き留めた。芳江が何かの折に言っていた言葉を、自分なりにまとめたものだった。
悟ろうと頑張ることは、いらない。 自然と、その日は来る。
それまでは—— 今世のテーマを、味わうことに、全集中。
窓の外、東京の夜が広がっていた。無数の光が、それぞれの悲しみと喜びを内側に抱えて、静かに灯っていた。
凛はその光を見ながら、あの老女のことを思った。ひび割れた「わたし」の手のことを思った。誰かの冷たくなった手のことを思った。母の書かれなかった言葉のことを思った。
全部、ここにある。全部、わたしの中にある。
それで良い。
魂が静かになる日まで、ちゃんと生きていけばいい——それだけで、良い。
アマリエの物語の続きがここに
あなたの魂の物語を生きる