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魂が覚えている場所

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第一章 繰り返す夢の声

三十七歳の秋、佐藤澪は同じ夢を見るようになっていた。

川のほとりに立つ女の夢だ。着物姿のその女は、澪自身ではないはずなのに、なぜか内側から見ているような感覚がある。女は何かを手放そうとしている。水面に白い花びらを一枚ずつ流しながら、泣いてもいない、笑ってもいない、ただ静かに——何かを「終わらせて」いる。

目が覚めるたびに、胸の奥に説明のできない痛みが残った。

「また見たの?」

洗面台の鏡の前で澪がぼんやりしていると、夫の健一が声をかけた。澪は小さく頷いた。健一は「夢外来でも行ってみたら」と言いかけて、やめた。そういう話をすると、澪がどこか遠いところへ行ってしまう気がすると、以前に打ち明けてくれたことがあった。

澪は広告代理店のプランナーだった。クライアントの言葉を翻訳し、消費者の感情を設計し、誰かの欲しいものを言語化することを仕事にしてきた。十五年、それをやり続けた。なぜ続けてこられたのかと問われれば、「我慢してきたから」という言葉しか浮かばない。それがひどく恥ずかしいと思いながらも、他の答えが出てこなかった。

夢の女が流す花びらが、何かを手放す行為であることは、なんとなく分かっていた。でも、何を手放すのかが分からなかった。


第二章 我慢の正体

十一月のある月曜日、澪は会議中に突然、声が出なくなった。

プレゼンの途中だった。スライドを前にして、次の言葉を探した瞬間、喉の奥が閉じた。声帯が震えることを、拒否した。クライアントも同僚も、最初は演出かと思ったらしかったが、澪の顔色が変わっていくのを見て、ようやく異変に気づいた。

病院へ行くと、機能性失声症だと言われた。ストレスや心理的な要因によって、身体的に問題がないにもかかわらず声が出なくなる症状だ。

「これまで自分を抑え込んできませんでしたか」と、担当医が静かに尋ねた。

澪は頷こうとして、代わりに泣いた。

一週間の休養を命じられた。澪はその間、一度も外へ出なかった。窓から空を眺めながら、ずっと考えていた。我慢して生きてきた、そのことの意味を。なぜ我慢するのが当然だと思ってきたのか。誰かに言われたのか、それとも自分で決めたのか。気づけば、記憶をどこまでもたどっていた。幼い頃の自分、学生だった頃の自分、そして——

また、夢の女が現れた。

今度は、女が振り返った。その顔は澪にそっくりで、でも目の色がまったく違った。静かで、深くて、何十年分もの時間が宿っているような瞳だった。女は口を開いたが、声は聞こえなかった。唇の動きだけが、何かを告げていた。

澪には読めた。

「もう、いい」


第三章 魂の声を聞く朝

声が戻ったのは、休養五日目の朝だった。

澪は台所で湯を沸かしながら、窓の外の欅の木を見ていた。葉が全部落ちていた。先週まで黄色く色づいていたのに、ひと晩の風で裸になっていた。その潔さが、澪の胸を打った。

木は我慢して葉を抱えていない。季節が来たら、手放す。

「私は」と澪は声に出して言ってみた。声が出た。か細く、震えていたが、確かに出た。「私は何がしたいんだろう」

沸いたお湯をカップに注ぎながら、澪は初めて、自分の「したい」に真剣に向き合ってみた。プランナーとしての仕事ではなく、もっと根の部分、もっと古い部分にある、何か。

言葉が、文章が、好きだ。

誰かの商品を売るためではなく、ただ、誰かの心に触れるための言葉が。

夢の女が花びらを流していたのは、手放しを悼むためではなかったのかもしれない。何かを新しく迎えるために、古いものを送り出していたのかもしれない。

澪はその日、十年以上眠らせていたノートを引っ張り出した。大学生の頃、短編小説を書いていた。誰にも見せたことのない、自分だけの言葉が詰まったノート。ページを開くと、当時の自分の字が飛び込んできた。稚拙だったが、魂があった。

魂の声、というものがあるとしたら、これだと思った。


第四章 地球に立ち返る

澪が職場に復帰する前日、健一が「少し歩こう」と誘った。

挿絵

近くの公園まで、二人で歩いた。枯れ葉が積もった道を踏みしめながら、澪は足の裏に地面の感触を意識した。こんなふうに地面を感じながら歩いたのは、いつぶりだろう。いつも頭の中で次の仕事のことを考えながら、宙に浮いたまま歩いていた気がする。

公園のベンチに座ると、銀杏の木が一本、まだ黄金色の葉を抱えていた。

「綺麗だね」と健一が言った。

「うん」と澪は答えた。本当に綺麗だと思った。心から、単純に。

長い時間、二人は黙って空を見ていた。澪の中で、何かが静かに解けていく感覚があった。我慢することで守ろうとしてきたもの——それは安全だった。傷つかないための、変わらないための、失わないための我慢。でも、それと引き換えに失い続けてきたものがある。自分の声。自分の時間。自分が本当に感じていること。

地球はずっとここにあった。季節を繰り返し、葉を落とし、また芽吹かせながら。澪が我慢していた十五年間も、地球は何も変わらず豊かだった。その豊かさの中に自分がいたことに、澪は今さら気づいた。

「転職したい」と澪は言った。

健一は驚いた顔をしなかった。「そっか」とだけ言って、また空を見た。

「小説を書きたいの。ちゃんと学んで、ちゃんと書いて、誰かに届けたい」

「うん」と健一は言った。「知ってたよ」

「え?」

「澪が本当に生き生きしてたの、あのノートに書いてた頃だったから」

澪は笑った。久しぶりに、お腹の底から笑えた気がした。


第五章 新たな自分に出会う朝

翌春、澪は広告代理店を辞めた。

フリーランスのライターとして細々と仕事をしながら、夜は小説を書いた。最初は本当に下手だった。でも、下手でも楽しかった。我慢して書いているのではなく、書かずにはいられなくて書いていた。その違いが、こんなにも大きいとは思わなかった。

夢の女は、もう現れなかった。

いや、正確には——澪はある夜、うとうとしながら、あの川のほとりを思い浮かべた。女はもういなかった。ただ川だけがあって、水面が静かに光っていた。最後の花びらが、遠くへ流れていくのが見えた。

それが何を意味するのか、澪には分かった。

前世から続く記憶、と呼ぶべきものが、人にはあると思う。それは超自然的な話ではなく、もっと静かなもの——繰り返し感じてきた痛み、繰り返し見てきた夢、なぜかいつも惹かれる何か、なぜかいつも怖い何か。それは過去の自分が残した声で、「次はこちらへ」と指さしている。

澪はそれに、ようやく耳を傾けた。


エピローグ

秋になると、澪は欅の木の下でよくノートを開く。

近所の小さな公園の、あの銀杏の木の隣に座って、言葉を書く。最初の短編が、小さな文学賞の最終候補に残ったのは、その年の暮れのことだった。受賞はしなかったけれど、選評に「魂のある文章」と書かれていた。それを読んだとき、澪は一人で泣いた。誰にも見せたくない涙だったから、公園のベンチで、欅の葉が舞う中で、ひとりで泣いた。

地面に落ちた葉を一枚拾い上げながら、澪は思う。

時間は、使い方によってその重さが変わる。我慢のために使った一秒と、魂の声に従って使った一秒は、同じ長さでも、まったく違うものになる。どちらも取り返しがつかないが、後者だけが何かを育てる。

そして地球は、どちらの一秒も、等しく受け取ってくれる。裁かず、比べず、ただ静かに。

前世から続く記憶が語りかけるとしたら、そのメッセージはきっとひとつだ。

――我慢して生きる意味を問い直せ。生命体として、魂の声に従え。地球に感謝し、新たな自分に出会え。時を大切に。

澪は今日も、ペンを走らせる。

まだ会ったことのない読者のために。まだ書かれていない言葉のために。

そして、あの川のほとりで花びらを流し続けていた、すべての自分のために。


エピローグ

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ソウルミッション358

あなたの魂の物語を生きる