魂の礎石 ―― 今世で学ぶべきこと

魂の礎石 ―― 今世で学ぶべきこと
第一章 崩れ始めた礎
桐島誠は、四十二年間生きてきて、初めて自分が何者かわからなくなった。
十月の雨が窓を叩く深夜、東京・丸の内の高層オフィスに一人残された彼は、液晶画面の白い光に照らされながら、ぼんやりとデスクの上の書類を見つめていた。部長職に就いて三年。売上成績は部内トップ。社内では「鉄の誠さん」と呼ばれ、感情を表に出さない判断力を評価されてきた。
だが今夜、部下の田中亜希が泣きながら辞表を置いていった言葉が、頭から離れなかった。
「桐島部長は、人間じゃなくて、機械みたいです」
誠は怒らなかった。怒れなかった。その言葉がどこか正確だと感じたから。
いつからだろう、と彼は考えた。いつから自分は、腹が立っても笑い、悲しくても頷き、本当は叫びたいのに静かにパソコンを閉じるようになったのか。それは「自制心」と呼ばれる美徳のはずだった。しかし今夜、誠の胸には、長年蓋をしてきた何かが、ひびを入れ始めていた。
帰り道、コンビニのそばに捨て猫がいた。雨に濡れて震えている黒猫を、誠は五分間眺めた。その猫は誠を見上げ、何の躊躇もなく鳴いた。恐れも遠慮も計算もなく、ただ「助けてくれ」という一つの声を上げた。
誠はその場を立ち去り、三歩歩いて、足を止め、また戻った。猫を拾い上げ、コンビニでミルクを買った。胸の奥で何かが揺れていた。その震えが何なのか、彼にはまだわからなかった。
第二章 土に還る場所
翌週、誠は有給を使って岐阜の山里にある祖母の家を訪ねた。理由は自分でもよくわからなかった。ただ、東京にいたら壊れると思った。
祖母の澄江は七十八歳になっても背筋が真っ直ぐで、目に深い静けさをたたえた人だった。誠が縁側に腰を下ろすと、澄江は何も聞かずに温かい茶を出した。二人は長い間、山に降る霧雨を眺めていた。
「おばあちゃん、俺、誰かに機械みたいだって言われた」
澄江は茶碗を口に運んで、静かに言った。
「そりゃあ、疲れたやろね」
「何が?」
「自分じゃない自分を演じることが」
誠は言葉に詰まった。否定しようとして、できなかった。
「人間ってのは難しい生き物やよ」澄江は続けた。「犬は怖かったら吠える。腹が減ったら食う。ただそれだけ。でも人間はそうはいかん。怒りたいのに笑わなあかん。泣きたいのに泣けんこともある。その葛藤の中で、人は何かを学んでいくんよ」
誠は庭の先の、霧の中に消えていく杉林を見た。
「でも俺は、コントロールしすぎて、自分が何を感じてるのかも、もうわからなくなってる」
澄江は孫の横顔を優しく見つめた。
「それが、今世でお前が学ぶべきことの、始まりかもしれんよ」
第三章 本能という根
翌朝、澄江に連れられて山道を歩いた。
道の脇に倒れた大木があった。根が地面から抉れて、巨大な土の壁のようになっている。台風で倒れたのだという。
「この木は何十年も、嵐が来るたびに折れそうになりながら耐えてきた」澄江は根に触れながら言った。「この根っこがあったから立っていられた。根っこがなかったら、とっくに流されてた」
誠は何かを感じた。足の裏から地面が伝わってくるような、奇妙な感覚。
「人間の本能も、こういう根っこと一緒やよ」祖母は続けた。「怒りも、悲しみも、欲も、恐れも、全部生きるための根っこ。それを完全に切ったら、人間は枯れてしまう。でも根っこだけじゃ、木じゃなくて、ただの草やろ。幹があって、枝があって、葉が茂って、初めて木になれる」
誠は倒れた木の根に手を置いた。その冷たさと、土の匂いと、何か途方もない時間の厚みが、掌から流れ込んでくるような気がした。
「自我ってのは、その幹なんやな」誠は呟いた。
澄江は微かに微笑んだ。
「そうや。根っこを否定するのでも、根っこに飲まれるのでもなく、幹として立つことが、人間にだけ課されたことやと、わたしは思っとる」
第四章 魂が鳴く夜
三日目の夜、誠は夢を見た。

暗い海の底にいる夢だった。光もなく、音もなく、ただ深い静けさがあった。そして自分の胸の中心に、小さな光の核があることに気づいた。それは心臓の鼓動と一致して、柔らかく点滅していた。
誠は夢の中で泣いた。理由はわからなかった。ただ、その光を見たとき、何か大切なものに久しぶりに会えたような気がして、言葉にならない感情が溢れ出した。
目が覚めると、頬が濡れていた。
暗い天井を見つめながら、誠は亜希の言葉を思い出した。あのとき、自分は何を感じたのか。怒り? 悲しみ? それとも、図星を突かれた痛み? 今ならわかる気がした。あのとき自分が感じたのは、悲しみだった。機械みたいだと言われたことへの悲しみではなく、実際にそうなってしまっていた自分への、深い悲しみ。
翌朝、誠は縁側で澄江に言った。
「昨日、夢の中で泣いた」
「そうか」
「久しぶりやった。泣くって感覚」
澄江は遠くを見ながら言った。
「喜びと悲しみは、魂の肥やしやよ。どちらかだけじゃあかん。泥があってこそ、蓮の花は咲く」
誠は深呼吸した。山の空気が、肺の奥まで届くような気がした。
「俺、帰ったら亜希に謝る。それから、自分がどう感じてるか、もう少し正直に生きてみる」
澄江は何も言わず、ただ頷いた。その目に、長い年月をかけて磨かれた何かが宿っていた。
第五章 礎石を据え直す
東京に戻った誠は、まず田中亜希に連絡を取った。
カフェで向かい合ったとき、誠は資料も手帳も持って行かなかった。ただ、コーヒーを一杯頼んで、真っ直ぐ彼女を見た。
「あのとき、正直に言ってくれてありがとう。傷ついたけど、必要な言葉だった」
亜希は驚いたように目を瞬かせた。
「俺は長い間、感情をコントロールすることと、感情を消すことを混同してた。本当は、感じながら、それでも誰かのために選択できることが、人間としての強さなんだと思う。……ようやく、それがわかってきた気がする」
亜希は少しの間黙っていたが、やがて静かに言った。
「桐島部長が、そんなふうに話すの、初めて聞きました」
「俺もこんなふうに話すの、久しぶりだ」
二人は笑った。うまくはない笑いだったが、どこか本物の笑いだった。
誠は帰り道、コンビニの前を通った。あの黒猫はいなかった。誰かに拾われたのか、それとも自分で雨宿りを見つけたのか。どちらでもよかった。大事なのは、あの夜自分が五分間立ち止まったことだ。
三歩歩いて、戻ったことだ。
エピローグ
秋が深まり、銀杏の葉が黄金に染まる頃、誠は岐阜の祖母に手紙を書いた。
長い手紙だった。仕事のこと、亜希のこと、夢のなかで見た光のこと、そして自分がまだよくわからないままでいること。それでも、わからないままでいることを怖れなくなったこと。
最後にこう書いた。
おばあちゃん、俺はずっと、本能を完全に殺すことが大人だと思ってた。でも今は、本能という根を大切にしながら、自我という幹で立つことが、人間として生きることなんだと思ってる。喜びも悲しみも、全部受け取って、それを糧にしていく。それが、今世で俺がやるべきことなんだと思う。まだ全然うまくできてないけど。
澄江からの返信は、一週間後に届いた。短い便箋に、丸みを帯びた文字でこう書かれていた。
それでええよ。うまくできなくていい。ただ、今世での価値観こそが、己を形成する礎石やから。喜びと悲しみを糧に、ゆっくり、魂を磨いていきなさい。
誠はその手紙を、胸ポケットに折り畳んで入れた。
窓の外、東京の空に、冬の最初の星が灯っていた。機械仕掛けの街の上で、それはひっそりと、しかし確かに、光を放っていた。
――唯一無二の魂は、喜びと悲しみを糧に、今夜も静かに磨かれていく。
了

アマリエの物語の続きがここに
あなたの魂の物語を生きる