← Stories に戻る

光の側へ——魂が卒業する朝

光の側へ——魂が卒業する朝

光の側へ——魂が卒業する朝


第一章 最後の秋

 十一月の朝、倉田芳江は病院のベッドの上で目を覚ました。

 窓の外には銀杏の木が一本立っており、葉はすでにほとんど散り終えていた。残り少ない金色の葉が、風に揺れるたびに一枚、また一枚と空へ吸い込まれていく。芳江はそれをぼんやりと眺めながら、自分の手の甲を見た。八十二年分の皺と染みが刻まれた手。夫を看取り、息子を育て、孫たちの笑顔を見守ってきた手。

 「おばあちゃん、起きてた?」

 引き戸が開き、孫の真帆が顔を出した。二十六歳になった真帆は、祖母に似て目が細く、笑うと目尻に小さな皺が寄る。芳江はその顔を見て、小さく微笑んだ。

 「起きてたよ。葉っぱが落ちるのを見てた」

 「寒くない?」

 「ちっとも。なんだかね、真帆ちゃん、今日は体が軽いんだよ」

 真帆は祖母の手を両手で包んだ。医師からはすでに「年内が峠」と告げられていた。癌は静かに、しかし確実に、芳江の体を蝕んでいた。それでも芳江は、不思議なほど穏やかだった。恐れている様子がなかった。それがかえって真帆には切なかった。

 「おばあちゃんは……怖くないの?」

 しばらく沈黙が続いた。芳江は視線を窓の外に向けたまま、ゆっくりと口を開いた。

 「ねえ真帆ちゃん。学校を卒業するとき、怖かった?」

 「え?」

 「小学校を卒業するとき。中学に上がるのが、怖かった?」

 真帆は少し考えた。「……少し寂しかったけど、怖くはなかったかな。友達と離れるのが嫌だったけど、でも次が楽しみだった」

 「そうでしょう」と芳江は言った。「そういうことよ」


第二章 夢の中の声

 その夜、真帆は病院の面会室のソファで眠りに落ちた。

 夢の中で、真帆は見知らぬ野原に立っていた。空は夕暮れでも夜明けでもない、青白く輝く不思議な色をしていた。遠くに人影が見える。歩いていくと、それは若い頃の祖母だった。三十代くらいだろうか。髪が黒く、頬が薔薇色をしている。芳江は振り返り、真帆を見て微笑んだ。

 「来たの」

 「おばあちゃん……若い」

 「ここではね、魂はいつも一番きれいな形をしているの」

 二人は並んで歩いた。草の上を歩いているのに、足音がしない。

 「真帆ちゃん、私ね、もう決めたのよ」と芳江が言った。「次のステージに行くって」

 「次って……死ぬってこと?」

 「卒業よ。人間という学校を、卒業するの」芳江は空を見上げた。「この世界でね、私は色んなことを学んだ。愛すること、手放すこと、許すこと、感謝すること。全部、ちゃんと学んだ。だからもう……行っていいのよ」

 「でも私はまだ……おばあちゃんと一緒にいたい」

 芳江は立ち止まり、真帆の頬に手を当てた。夢の中なのに、その手のひらの温もりが確かに伝わってきた。

 「いなくなるわけじゃないのよ。形が変わるだけ。私はね、向こう側からあなたを守る係になるの。サポート側に移るの」

 「サポート側?」

 「そう。ここにいるときより、もっとちゃんとあなたのそばにいられる。あなたが辛いとき、ふっと温かい風が吹いたら、それが私よ。あなたが何かを選ぼうとして迷ったとき、胸の奥でかすかに聞こえる声、あれも私」

 芳江は笑った。それは真帆が子供の頃から知っている、あの安心する笑顔だった。

 「だから泣かないで。悲しまないで。私は卒業するだけ。あなたより先に向こうに行って、待ってるだけ。それだけよ」

 目が覚めたとき、真帆の頬には涙が光っていた。しかし胸の中には、不思議な静けさがあった。


第三章 転生の記憶

 翌朝、真帆が病室に戻ると、芳江は珍しく話したがっていた。

 「昨夜ね、不思議な夢を見たの」と芳江は言った。「あなたも夢を見たでしょう?」

 真帆は目を見開いた。「おばあちゃんも……?」

 「同じ野原にいたでしょう。私ね、あの夢の中でいろんなことを思い出したの」芳江は遠い目をした。「私ね、今回が最後の旅だって気がするの。魂がずっとずっと、長い旅をしてきてね。色んな時代に、色んな人として生きてきた。戦いの時代も、飢えの時代も、愛した人と引き裂かれた時代も。全部ちゃんと経験した」

 「輪廻転生……ってこと?」

 「そう呼んでもいいし、呼ばなくてもいい。ただ私の魂が覚えているの。今回の人生が最後の授業だって。人間としての最後の課題は……感謝だったのよ」

 芳江は点滴の管が繋がった手を、布団の上でそっと開いた。

 「苦しかった夜も、悲しかった別れも、理不尽だと思った出来事も……全部、私の魂が決めてきたことだったの。生まれる前に、自分で選んできたシナリオ。だからね、全部に感謝できるの。腹が立ったことにも、泣いた夜にも、もがいた時間にも」

 真帆は祖母の手を握った。

挿絵

 「この癌にも?」

 芳江は少し考えてから、静かに頷いた。「この癌にも。だってこれがなかったら、あなたとこんなに話せなかった。毎日来てくれなかった。あなたの顔を、こんなにゆっくり見られなかった」

 真帆は声を押し殺して泣いた。芳江はその手をゆっくりと撫で続けた。


第四章 魂のシナリオ

 十二月の初め、芳江の容態が急変した。

 深夜に駆けつけた真帆と息子夫婦が見守る中、芳江は静かに呼吸を繰り返していた。もうほとんど意識はなかった。

 真帆は祖母の耳元に口を近づけた。

 「おばあちゃん。いってらっしゃい。ちゃんと卒業して。向こうでみんなに会ってね。おじいちゃんにも」

 その瞬間、芳江の表情が——苦しみではなく——ふっと緩んだ。口元に、かすかな微笑みが浮かんだ。

 そして息が止まった。

 部屋の中が静まり返った。誰も泣かなかった。泣けなかったのではなく、泣く必要がないような、そんな空気が満ちていた。まるで卒業式の後の、清々しい沈黙のように。

 真帆は窓の外を見た。雪が降り始めていた。小さな、白い、静かな雪が。街灯の光の中でひとひらひとひら、それぞれの速度で落ちていく。

 「おばあちゃん」と真帆は小さく呟いた。「ありがとう」

 その瞬間、室内に温かな風が吹いた気がした。換気扇も窓も閉まっているのに。真帆は思わず笑った。

 ——あなたが辛いとき、ふっと温かい風が吹いたら、それが私よ。


第五章 光の側から

 葬儀が終わり、一ヶ月が過ぎた。

 真帆は祖母の部屋の片付けをしていた。引き出しの奥から、古いノートが出てきた。表紙に祖母の筆跡で「覚え書き」と書いてある。開くと、ぽつぽつと短い言葉が並んでいた。

 苦労は宝。悲しみは肥料。

 全ての出会いに意味がある。

 私が死んでも、愛は死なない。

 最後のページに、こう書いてあった。

 旅が終わるとき、きっと清々しい。

 だってやっと、次の場所に行けるんだもの。

 真帆はノートを胸に抱きしめた。窓の外では、冬の日差しが透き通るように降り注いでいた。

 その光の中に、真帆は確かに感じた。

 祖母が、いる。

 形は変わった。でも消えていない。もっと大きな何かになって、あたたかく、真帆のそばにいる。

 ——人間を卒業し、新たなステージへ進む。

 ——サポート側に移行し、愛で未来を支える。

 それはただの比喩ではなかった。真帆には今、はっきりとわかった。魂は終わらない。旅の形が変わるだけだ。そして旅が終わるとき——本当の終わりなど、どこにもない。


エピローグ

 春が来た。

 真帆は就職の面接を控えて、朝から緊張していた。玄関を出ようとしたとき、頬にふわりと温かい風が触れた。

 思わず立ち止まる。三月の朝に、こんな温かい風が吹くだろうか。

 真帆は空を見上げた。青く、高く、澄んだ空。

 「行ってきます」と真帆は言った。誰もいない玄関で。でも確かに、誰かに向かって。

 胸の奥で、小さな声がした。

 行っておいで。大丈夫よ。ちゃんと見ててあげるから。

 真帆は深呼吸をして、歩き出した。

 魂のシナリオ通り——すべてに感謝を捧げながら。

 旅は続く。形を変えながら。光の側からも、この側からも。愛だけを手荷物にして。


                 

エピローグ

Twin Ray Clubで続きを読む

アマリエの物語の続きがここに

ソウルミッション358

あなたの魂の物語を生きる