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魂の卒業式

魂の卒業式

魂の卒業式


第一章 光の境界線

東京の片隅に、白壁に囲まれた小さなリハビリテーション病院がある。

七月の朝、朝露が窓ガラスを濡らす頃、七十八歳の桐島信夫は病室のベッドから窓の外を見つめていた。リハビリを始めてから四十日が経った。脳梗塞で倒れ、右半身の自由を奪われた彼が、再び歩けるようになったのはつい先週のことだ。

「桐島さん、今日も調子はいいですか」

担当の理学療法士、二十八歳の中田葵が入ってきた。いつもより少し早い時間だった。

「ああ、いいよ。よく眠れた」

信夫は穏やかに答えた。しかし葵には、何かが違うとすぐにわかった。彼の目が、以前とは別の光を帯びていた。澄んだ、遠くを見るような瞳。まるで見えないものを見ているかのような。

「今日で、リハビリは最後です。明後日、退院の予定ですから」

「そうだな」

信夫は静かに頷いた。その落ち着き方が、葵には少し不思議だった。退院を喜ぶでも、悲しむでもない。ただ、すべてを受け入れているような表情。

窓の外では、一羽の白い鳥が飛んでいった。


第二章 清算の時

リハビリ室では、ほかの患者たちが平行棒の間を歩いていた。信夫は端の椅子に座り、葵の指示を待っていた。しかし今日の信夫は、歩行訓練よりも先に、葵に話があると言い出した。

「座ってもらえるか。少しだけ」

葵は戸惑いながらも、隣の椅子を引いた。

「私はね、若い頃、家族に酷いことをした」

信夫はゆっくりと話し始めた。葵は黙って聞いた。

「仕事ばかりで、妻の誕生日も覚えていなかった。息子の運動会も、一度も行かなかった。妻は五年前に逝ったが、最後まで文句一つ言わなかった。それが、ずっと胸に刺さっていた」

声は揺れなかった。しかし葵には、その言葉の重さが伝わってきた。

「倒れて、ベッドの上でずっと考えた。許しを請う相手も、もういない。でもな、不思議なことがあった」

信夫は少し微笑んだ。

「夢の中で、妻が来たんだ。怒っていなかった。ただ笑っていた。『あなたは十分やったわ』と言って、手を握ってくれた。目が覚めたら泣いていた。こんな年になって、子供みたいに」

葵は気づくと、自分の目が潤んでいた。

「先生は信じるか。死んだ人の魂が、夢に来ることを」

「信じます」と、葵は即座に答えた。「私の祖母も、亡くなった後に夢に出てきました。本当に来てくれたんだと、今でも思っています」

信夫は深く頷いた。

「そうか。よかった」

それから二人は、本来のリハビリを行った。信夫の歩みは、最初の頃とはまるで別人のようだった。足取りに迷いがなかった。まるで行き先を知っている人間の歩き方だった。


第三章 魂の情報

翌日の夜、信夫は病室で手紙を書いていた。息子の健一への手紙。それから、かつて仕事で傷つけた部下への手紙。長年疎遠になっていた妹への手紙。

一通ずつ、丁寧に。

書きながら信夫は気づいていた。これは謝罪の手紙ではない。「ありがとう」の手紙だ。傷つけた相手も、遠ざかった相手も、すべて自分という魂を磨いてくれた存在だった。摩擦があったからこそ、自分は削られ、形になった。

消灯を過ぎた頃、病室にほのかな光が差した。

信夫は目を細めた。窓は閉まっている。廊下の光でもない。

光の中に、輪郭が見えた。妻の顔だと思った。しかしそれは、人の形をした何かだった。言葉はなかった。ただ、深い暖かさが胸に流れ込んできた。知識ではなく、感覚として。魂というものは続く、ということ。この肉体での役割を終えても、旅は続く、ということ。次の場所では、もっと軽くなる、ということ。

信夫はその瞬間、泣かなかった。

ただ、「わかった」とひとりごとのように言った。

翌朝、葵が病室に来ると、信夫は手紙の束を彼女に手渡した。

「郵便局に出してもらえるか。頼める人が、君しかいない」

「もちろんです」

「それから、最後に一つだけ聞いてもいいか」

「はい、何でも」

「君は、今の仕事が好きか」

葵は少し驚いたが、正直に答えた。「好きです。でも、もっとうまくできたらと思うことも多くて」

「それでいい」と信夫は言った。「完璧にやろうとするな。不完全だから、人は寄り添えるんだ。私が倒れて、ここに来て、君に話を聞いてもらえたのは、君が完璧じゃなかったからかもしれない」

葵は胸が熱くなった。

「ありがとうございます、桐島さん」

「いや、ありがとうは私の方だ」

挿絵


第四章 旅立ちの朝

退院の朝、東の空が橙色に燃えていた。

信夫は病院の玄関前に立っていた。息子の健一が車で迎えに来ていた。四十代半ばの健一は、父親の変化に戸惑っていた。倒れる前の父は、もっと頑なで、口数が少なかった。しかし今の父は、穏やかで、どこか遠い場所を見ていた。

「お父さん、本当によかった」

健一は涙をこらえながら言った。

「お前も来てくれてありがとうな」

信夫はそう言って、息子の肩を叩いた。照れ臭そうに、しかし確かに。

葵はスタッフたちと見送りに出ていた。信夫は彼女のもとに歩み寄り、深く頭を下げた。

「世話になった。元気でいなさい」

「お元気で。また遊びに来てください」

「ああ、そうしよう」

信夫は笑った。それは約束というよりも、もっと軽いもの、あるいはもっと深いものだった。

車が走り出す直前、信夫は窓を開けた。

「中田さん」

「はい」

「魂はな、卒業するんだ。学校と同じように。一つの場所を卒業して、次の場所へ行く。怖いことじゃない」

葵は何も言えなかった。ただ、強く頷いた。

車は静かに走り去った。白い朝の光の中へ。


第五章 余波

それから三ヶ月が経った。

葵のもとに、一通の手紙が届いた。差出人は息子の健一だった。

「父、桐島信夫は先月、自宅で静かに息を引き取りました。眠るように、穏やかに。最後まで、自分らしく生きました。父が世話になったと、よく話していました。あなたのおかげで、父は大切なものを思い出したと思います」

葵は手紙を胸に当てて、目を閉じた。

「よかった」

小さな声でそう言った。

その夜、葵は夢を見た。広い光の野原に、一人の老人が立っていた。後ろ姿だったが、すぐに信夫だとわかった。振り返ることなく、ただ前へ歩いていた。その歩き方は、リハビリ最終日の、迷いのない足取りと同じだった。

行き先を知っている人間の歩き方。


エピローグ

桐島信夫が遺したノートが、息子の健一によって発見されたのは、四十九日を過ぎてからだった。

最後のページには、鉛筆でこう書かれていた。


リハビリ終え 霊界へと歩む

過去の清算 未来への希望

新たな魂の 情報を胸に

感謝を込めて 旅立つ時


その下に、一言だけ添えられていた。

「怖くなかった。ありがとう、と思っていた」

健一はそのページを何度も読んだ。そして初めて、父という人間が、何を生き、何を学び、どこへ向かったのかを、少しだけ理解できた気がした。

人は死ぬのではない。卒業するのだ。

この肉体の教室を終え、魂の旅を次のステージへ進める。リハビリとは、ただ身体を取り戻すことではなかった。魂が、次の旅へ出るための準備をすることだったのかもしれない。

葵は今日も、リハビリ室に立っている。

新しい患者が平行棒を握る。よろよろと、しかし確かに前へ進む。

その後ろに寄り添いながら、葵はいつも思う。

この一歩は、どこへ続いているのだろう。

そして、きっとどこかへ続いている、と信じている。


エピローグ

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ソウルミッション358

あなたの魂の物語を生きる