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淡雪のように、ただ一度

淡雪のように、ただ一度

淡雪のように、ただ一度

第一章 さよならの重さ

三月の終わり、桜の蕾がまだ固く閉じているころ、宮本遥(みやもとはるか)は父の遺品を段ボール箱に詰めていた。

父、宮本誠一郎は七十二歳でこの世を去った。心筋梗塞だった。朝、台所でコーヒーを淹れていて、そのまま倒れたという。遥が知らせを受けたのは、東京のオフィスでプレゼン資料を作っていた午後二時のことだった。

「あんなに元気だったのに」

誰に言うでもなく、遥はつぶやいた。父の書斎は、古い木の匂いがした。窓際の棚には釣り道具、昔の写真、そして読み古した文庫本が並んでいた。本の背表紙を指でなぞりながら、遥は気づいた。自分は父がどんな本を読んでいたか、ひとつも知らなかった。

三十六歳。東京の広告代理店で働く遥は、「忙しい」を言い訳にして、年に二、三度しか実家に帰らなかった。帰っても、スマートフォンを手放せず、父と向き合って話した記憶がほとんどない。最後に会ったのは昨年のお盆だった。あの夜、父が「久しぶりにゆっくり話そうか」と言ったとき、遥は「明日も早いから」と席を立った。

その「明日」は、もう来ない。

段ボール箱のなかに、一冊のノートが入っていた。表紙に父の筆跡で「日々の記」と書いてある。開こうとして、遥は手を止めた。なんとなく、すぐには読めなかった。


第二章 喫茶店の老婦人

四十九日が過ぎ、遥は東京に戻った。けれど仕事に身が入らなかった。会議中も、誰かと話しながらも、どこか別の場所に意識が漂っていた。

ある土曜の昼、遥はいつもと違う道を歩いていた。特に理由はなかった。ただ、なんとなく、まっすぐ帰る気になれなかった。

路地の奥に、小さな喫茶店を見つけた。「珈琲 間(かん)」という木製の看板。引き戸を開けると、コーヒーと古い木材の混じった匂いがした。父の書斎に似た匂いだった。

カウンターの端に、七十代とおぼしき老婦人がひとり、コーヒーカップを両手で包むように持って座っていた。白髪を丁寧に結い、薄いブルーのカーディガンを着ていた。

遥は離れたテーブル席に座るつもりだったが、なぜかカウンターの椅子を引いた。

「こんにちは」と老婦人は言った。声に、静かな温もりがあった。

「こんにちは」

マスターがブレンドコーヒーを出してくれた。一口飲むと、胸の奥がほぐれるような気がした。

「お顔に、何か重いものを抱えていらっしゃるみたい」

老婦人が言った。遥は驚いて顔を上げた。

「ごめんなさい、余計なことを」老婦人は静かに笑った。「でも、私もかつてそんな顔をしていたから」

遥は、なぜだかわからないが、話した。父のこと。最後の夜、「明日も早いから」と言って席を立ったこと。もう取り戻せない時間のこと。

老婦人は何も急かさず、ただ静かに聞いた。

「私もね、娘と同じことをしたの」しばらくして老婦人は言った。「娘が病院で『お母さん、話したいことがある』って言ったとき、私は『後でね』って言ったの。その後はなかった」

沈黙が流れた。重い沈黙ではなく、何かを包み込むような静けさだった。

「でも、今はもう後悔していないのよ」

遥は顔を上げた。

「後悔していないって……?」

「悲しくないわけじゃない。でもね、あのとき娘と同じテーブルでお茶を飲んだこと、くだらない話で笑ったこと、手を握ったこと、ちゃんと残っているの。ここに」老婦人は胸に手を当てた。「後悔ではなく、宝物として」

遥はコーヒーカップを見つめた。

「どうすれば、そう思えるようになりますか」

「淡々と、ね」老婦人は言った。「過去も未来も、ひとまず置いといて。今ここにある温もりを、ただ味わうの。難しいことは何もない。ただ、それだけ」


第三章 父のノート

その夜、遥は父のノートを開いた。

日付と、短い文章が並んでいた。

四月三日。遥から電話。元気そうだった。声が聞けてよかった。

七月十五日。遥が帰ってきた。夕飯を一緒に食べた。他愛もない話をした。幸せだった。

八月十二日。遥は早く寝た。もっと話したかったが、忙しそうだったから仕方ない。また次に会えばいい。

「また次に」

その四文字で、遥の視界がにじんだ。父は怒っていなかった。責めてもいなかった。ただ、次の再会を楽しみにしていた。

ノートをめくると、こんな一節があった。

人との縁というのは、不思議なものだ。ほんの少し出会う時間がずれていれば、声を聞くことも、笑い合うこともなかった。だからこそ、どんな一瞬も、かけがえがない。

挿絵

遥は声を上げて泣いた。

しばらく泣いて、ふと気づいた。泣きながらも、胸の奥に何か温かいものがある。父の文字を指でなぞりながら、遥は思った。父と過ごした時間は、確かにそこにある。取り戻せないのではなく、永遠に消えない場所にある、と。


第四章 春の光のなかで

翌週、遥は再び「珈琲 間」を訪れた。しかし、あの老婦人の姿はなかった。

「先週のあの方、常連さんですか」とマスターに聞くと、首を傾げた。

「先週の土曜……? その日はお客さんが少なくて、覚えているんですが、カウンターにはお客さんはいなかったように思いますよ」

遥は言葉を失った。

「もしかしたら、私の見間違いかもしれませんが」マスターは続けた。「この店、昔から不思議なご縁を運んでくれる場所でね。必要な言葉が、必要なときに届くことがあるんですよ」

外に出ると、桜が咲き始めていた。薄ピンクの花びらが、春風にそっとほどけていた。

遥はベンチに座り、空を仰いだ。

父の書斎の匂い。老婦人の声。ノートに残った父の文字。すべてがつながって、ひとつの光のように感じられた。

出会いには理由がある。 そう直感した。あの喫茶店への道を変えたこと、老婦人がカウンターにいたこと、父のノートがあの場所にあったこと。すべては偶然ではなく、遥がこのことに気づくために、魂が用意した道筋だったのかもしれない。

桜の花びらが一枚、遥の膝に落ちた。

遥はそれを手のひらに乗せた。薄くて、柔らかくて、少しひんやりしていた。

ただ、これだけを感じればいい。

今、ここにある、この一瞬を。


第五章 電話をかける

その夜、遥はスマートフォンを手に取り、しばらく眺めた。そして、大学時代の友人、奈々に電話をかけた。もう三年も連絡を取っていなかった。

「え、遥!? どうしたの、急に」

「ごめん、久しぶりに声が聞きたくて」

「なんか、あった?」

「父が亡くなったの。三月に」

「……そうだったんだ。知らなくてごめん」

「連絡しなかった私のほうこそ、ごめん。ねえ、今度会えない? ゆっくり話したい」

電話を切ると、遥は窓の外を見た。東京の夜空。星は見えないが、光がある。

父のノートをもう一度開いた。最後のページに、日付のない一文があった。

どんな人も、一度きりの命を生きている。だから出会いは、一期一会なのだ。

遥は、その文字をそっと閉じた。


エピローグ

それから遥は、少し変わった。

会議が終わった後、同僚の「最近どう?」という言葉に、以前は「忙しい」と返していたのを、少し立ち止まるようになった。電車で偶然隣に座った人の、窓の外を見る横顔を、美しいと思えるようになった。母に電話するとき、用件だけで終わらせず、「元気にしてる?」と聞けるようになった。

毎年、春になると遥は「珈琲 間」を訪れる。あの老婦人はもう現れない。それでも遥は、カウンターの同じ席に座り、両手でコーヒーカップを包むようにして、一口飲む。

温かい。

それだけで、十分だった。

人との繋がりは、永遠には続かない。けれど確かに、あった。笑い合った。手を触れた。言葉を交わした。その一瞬一瞬が、時間を超えて、魂の奥底に灯り続けている。

桜の花びらのように、ひとつひとつは儚く、けれどその落ち方のなかに、言葉にならない美しさがある。

一期一会の出会い、ただ淡々と感謝。 人との繋がりを大切に、味わうだけでいい。 言葉を交わし、心を通わせ、共に笑う。 かけがえのない時を、ただ、大切に。

遥は今日も、誰かのそばに座る。急がず、構えず、ただそこにいる。それが今の遥にできる、いちばん誠実な生き方だった。


エピローグ

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