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流れの中に、咲く

流れの中に、咲く


第一章 折れた茎

春の終わりに、橘朔也(たちばな さくや)は会社を辞めた。

辞めたというより、辞めざるを得なかった、と言う方が正確かもしれない。三十二歳。プロジェクトマネージャーとして六年間、休日も深夜も返上で働き続けた末に、体は壊れる前に魂が先に折れた。ある月曜の朝、駅のホームに立ったとき、足が動かなくなった。電車が来ても、乗れなかった。ただそこに立ち尽くし、人の波が左右に分かれて自分を避けていくのを、他人事のように眺めていた。

心療内科の医師は「適応障害」という言葉を使った。朔也には、その言葉が小さく、薄っぺらに感じられた。適応できなかったのではない。適応しすぎたのだ。会社の論理に、効率の神話に、「成果を出さなければ存在できない」という見えない圧力に。

退職の手続きを終えた日の夜、朔也は実家のある長野へ向かう新幹線に乗った。窓の外、夜の山並みが黒い影として流れていった。スマートフォンの画面を見ると、元同僚からのメッセージが十数件たまっていた。ひとつも開かずに、機内モードに切り替えた。

「逃げたんだな、俺は」

車窓に映る自分の顔に、そうつぶやいた。


第二章 水の声

実家の裏山に、小さな沢が流れている。

子どもの頃、朔也はよくそこで時間を過ごした。大人になってからは、帰省してもほとんど行くことがなかった場所だ。しかし長野に戻って一週間、何もできずに布団の上で天井を眺める日々の中で、ある朝ふと思い立って、その沢まで歩いた。

五月の朝の空気は、冷たく、清潔だった。苔むした石の上を、水が絶え間なく流れている。大きな岩にぶつかれば、水は岩を押しのけようとするのではなく、その形に沿って迂回し、また流れを取り戻す。

朔也はしばらく、その水をただ見つめていた。

「抗わないんだな」

声に出してから、自分でも驚いた。水は確かに、岩に逆らっていない。それでも流れ続けている。目的地を変えることなく、ただ今の形に従いながら、前へ進んでいる。

その朝から、朔也は毎日沢へ通うようになった。

何かを考えるためではなく、何も考えないために。持っていったノートに文字を書くわけでもなく、スマートフォンで写真を撮るわけでもなく、ただ座って、水の音を聞いた。

十日ほど経った頃、不思議なことが起きた。

沢の上流に、朔也と同年代に見える女性が座っていた。彼女もまた、水をじっと見つめていた。目が合うと、彼女は静かに会釈した。朔也も会釈を返した。それだけだった。しかし翌日も、その翌日も、彼女はそこにいた。

三日目に、彼女が先に口を開いた。

「ここ、何年も来てなかったんですけど」

「俺もです」

「水って、変わりませんね」

朔也は少し考えてから、答えた。

「変わり続けてるのに、変わらない気がしますね」

彼女は笑った。それは力んだところのない、ごく自然な笑いだった。

名前は、桐島美緒(きりしま みお)といった。東京でフリーランスのデザイナーをしていたが、大切なクライアントとの関係が崩れ、自分の仕事への自信を失って、実家に戻ってきたのだという。

「私、ずっと抵抗してたんです」と美緒は言った。「うまくいかない現実に。なんで私ばっかりって。でも最近、その抵抗が疲れてきて」

朔也には、その疲れが手に取るようにわかった。

「抵抗するのをやめたら、どうなりました?」

美緒は沢に目を向けたまま、ゆっくりと答えた。

「静かになりました。怖いくらい、静かに」


第三章 嵐の夜に

六月に入ると、梅雨前線が山を包んだ。

ある夜、激しい雷雨が長野を直撃した。朔也は実家の縁側に座って、暗闇の中で光る稲妻を眺めていた。母親は「早く部屋に入りなさい」と言ったが、朔也には席を立てなかった。

雷の轟きが来るたびに、体の奥の何かが揺れた。

その夜、朔也は夢を見た。

夢の中で、彼は洪水の真っ只中にいた。激流に飲み込まれ、もがき、岸辺の木の枝をつかもうとした。しかし手が届かない。水に逆らって泳ごうとすればするほど、体力が奪われ、沈んでいく。

そのとき、夢の中の誰かが囁いた。

「抵抗をやめなさい」

朔也は動きを止めた。恐ろしかった。流れに身を任せることは、溺れることと同じではないか。しかし選択肢がなかった。腕の力を抜くと、不思議なことに、体が水面に浮かんだ。流れはそのまま朔也を運び、気がつけば穏やかな入り江に着いていた。

目が覚めると、雨は上がっていた。

朔也はその夢の意味を、朝の光の中でゆっくりと反芻した。

流れに身を委ねることは、諦めではない。自分という存在を信頼することだ。流れの中に消えるのではなく、流れと共に在ること。水が岩の形を受け入れながらも、流れ続けることをやめないように。

その日、朔也は初めて、退職という出来事を「起きたこと」としてそのまま受け取ることができた。抵抗も後悔も、言い訳も自己嫌悪もなく、ただ「そうなった」と。

不思議と、胸が軽くなった。


第四章 一歩の重さ

七月の初旬、美緒がスケッチブックを持って沢に現れた。

「久しぶりにデザインしたくなって」と彼女は言い、水の流れをていねいに線で描き始めた。その横顔は、初めて会ったときよりずっと穏やかだった。

朔也はそれを見ながら、自分の中に芽生えているものに気づいた。

東京にいた頃、朔也はずっと「次のプロジェクト」「次の目標」に向かって走り続けていた。今いる場所を踏み台にして、常に先を見ていた。しかしこの二ヶ月、川沿いを歩き、水の音を聞き、美緒と話し、ただそこにいるだけで、何かが積み重なっていくのを感じていた。

成長とは、前に進むことだと思っていた。

でも本当は、深くなることなのかもしれない。根を張ることなのかもしれない。

朔也はその日の午後、久しぶりにノートパソコンを開いた。転職サイトでも、元同僚へのメールでもなく、ずっと書きたいと思っていたことを書き始めた。プロジェクト管理の経験と、この二ヶ月で気づいたことを組み合わせた、中小企業向けのコンサルティングの構想。誰かに見せるためでも、承認を得るためでもなく、ただ自分の中にある声に従って。

書き終えたとき、外はもう暗くなっていた。

完成してはいなかった。まだ骨格だけだった。でも朔也には、それで十分だった。

一歩は、一歩でしかない。でも一歩は、確かに踏み出した。

美緒は翌日、東京に帰ると言った。

「また来ます、ここに」と彼女は言った。「水が教えてくれることって、まだたくさんある気がして」

「俺もそう思います」

別れ際、美緒は笑いながら言った。

「変わりましたね、朔也さん。最初に会ったとき、水を見てるんじゃなくて、水と戦ってるみたいな目をしてた」

朔也は苦笑した。確かにそうだったかもしれない。

「今は?」

「今は、一緒に流れてる感じ」


第五章 秋の始まり

九月、朔也は東京に戻った。

新しいアパートは、以前より小さかった。仕事は、以前より小さなスケールから始めることにした。知り合いの小さな会社の、小さなプロジェクト。収入は半分以下になる。それでも、初めて自分の言葉で仕事の話ができた。

入居した日の夜、段ボール箱に囲まれながら、朔也は長野の沢のことを思った。

水は変わらず流れているだろう。岩を迂回しながら、急流になりながら、また穏やかになりながら。季節が変わっても、流れることをやめずに。

朔也の中でも、何かが流れ始めていた。

それは以前の、追い立てられるような流れではなかった。もっと深いところから湧き出る、静かで確かな流れだった。

何かを証明しなくていい。誰かに認めてもらわなくていい。

ただ、今日の自分として、今日の一歩を踏み出す。

それだけでいい。


エピローグ

十二月の夜、朔也は美緒からメッセージを受け取った。

「新しいクライアントと仕事始めました。小さな仕事だけど、自分の声で話せてる気がします」

朔也は返信しながら、窓の外の東京の夜景を眺めた。無数の光が、それぞれの速度で明滅している。川のようだ、と思った。

誰もが流れの中にいる。誰もが何かにぶつかり、迂回し、また流れを取り戻す。

抗うことで守ろうとしてきたものは、受け入れることで初めて変わり始めた。静かな心の底で見えてきた真実は、小さく、しかし揺るがなかった。

一歩ずつでいい。

流れに沿って、深く、確かに。


受け入れる勇気こそ、本質を変える力となる。 現象に抗うことなく、流れに身を委ねてみよう。 心の静けさの中で、真実が見えてくるはず。 成長の機会を逃さず、一歩ずつ前に進もう。

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